非表示の短編用ブック

□こうしてくちてゆく
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水戸という生徒のアパートには大きな窓があった。
開いたドアのすき間から窓の外側――飾り格子に置かれたひびのある鉢を見たのは、一ヶ月ちょっと前のことだった。
深い藍色の鉢から何本も伸びる鳥の子色をした枯木は、教師を寄せつけない彼の雰囲気によく似合う。そう妙に納得したものだった。
だけど、今宵は。



私は幾度となくその鉢に視線をうつしては息を飲む。
朽ちているとばかり思っていた枝から何本も茎が伸び、青々とした葉が勢いよく茂っているから。
生命力の固まりのようなそれは、たった一株にも関わらず堂々とそびえ立つ。
ノコギリのように縁が尖ったまあるい葉が月明かりに照らされてできる、美しくみずみずしい連なり。
その頂上にそわりと咲く白緑色の花の集まりは、ただひたすらに色づくのを待っていた。
電灯の切れた部屋から見る月とあじさいがこんなにも心を奪うものだっただなんて。



畳敷きの室内には雨の匂いが立ち込めていた。水戸君の親はまだ帰らない。
持ってきたプリントの説明をしてケンカの理由を聞き、高校生活の話なんかを済ませれば特に話すことなどない。
家に上がらせてもらったことを気まずく思いながら、当初の目的を果たそうと彼に話を振る。



「ご両親、いつも遅いの?」



薄暗い部屋と座布団、どうしようもないほど疲れた体。陽のあるところにいなければ自然と休息モードに入ってしまいそうだ。
だけどいつまでもここでぼんやりしているわけにはいかない。
休みのはずの明日だって女バレの練習試合に顔を出さなくてはいけないし、小テストの準備だってある。
やらなくてはいけない事は山ほどあるのに、環境に慣れるだけでせいいっぱいだった。
副担任としてやっていけるのかという不安に、身も心もどっぷり浸かった日々。
水戸君だけじゃない。今まで自分が関わってこなかった、いろんなタイプの子たちが湘北にもたくさんいるのだ。



「名無しさん先生は、教師やってて楽しい?」


開け放たれたカーテンがほのかにゆれた。湿気たぬるい風がゆっくり部屋を駆ける。
二度目の処分をくらった事などどこ吹く風で、彼は出窓のすぐ横の壁に寄り掛かって悠々と言葉を放つ。
どうやら彼は先程の私の問いに答える気はないらしい。



「なんで先生にそんなこと聞くかなあ」




そしてあふれんばかりの夢を語る元気のない私も、彼同様に答えを濁す。
“先生”という一人称の便利さに気がついたのは、教師になってからだ。
自信のなさを覆い隠してくれる鎧のようなもの。あるいは名乗ることで自らを奮い立たせる、魔法の言葉。
毎日それを口にしていけば、段々とちゃんとした教師というものになれるような気さえしていた。



「4月よりも元気ないじゃん。夜寝れてないんじゃないの」


「そう?そっかなー。水戸君が見慣れてきただけじゃない?最初っからこんな風だよ、私」


「教師なんて色々と割り切ってやれる人じゃないときついと思うけどなあ。
今夜ぐらいは教師でいるのやめなよって言ったら、どうする?」


自宅謹慎中のくせにどこかに出かけでもしたのか、いつもと同じリーゼントの髪。
ちょうど月と街灯を背負うようにした彼の髪が光をキラリと反射していた。



「もし、まだご両親が戻らないんだったらそろそろ帰ろうかな。長居してても悪いし」


「はは、ずいぶん冷たいですね」


「えー?大人をからかっちゃいけません、ってことだよ。月曜日も一日、ちゃんと家で大人しくしてるようにね」


「…大人ねぇ。本当の大人は、こんな簡単に騙されたりしないですよ」



教材やなんかを入れた鞄に手を伸ばして適当に中身を確認するふりをしていた私は、苦笑まじりの彼の表情に釘付けになる。
それは一体、どういう意味──?


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