非表示の短編用ブック

□桜しべ降る
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薄青の影が落ちる夕暮れ、絞り出すように思いを告げて抱き寄せられたあの日。
淡い桜色がはらはらと落ちる様子が名残惜しくて、いつまでも南の腕の中にいた。



南と会うのはあの日以来になる。



思いが通じても関係が急速に盛り上がる事もなく灯された恋心を上手く隠してしまうのは、二人の特徴なのかもしれないと名無しさんは思う。
四月も中旬、もう履修登録が始まる頃だ。ここは国立の経済学部に進んだ名無しさんと私大薬学部に進んだ南が会いやすい便利な駅。


薬学系はそれなりに偏差値が高い。南が合格したのも当然それ相応の大学で、進路指導担当の教員も驚いていたらしい。
前に南は三科目で済んだからなと謙遜していたけれどバスケ漬けの三年間を送っていたのだ、快挙と言ってもいいくらいだろう。


二人が待ち合わせを決めたカフェの店内はちょうど外の街路樹が見える作りになっている。
数週間前は満開だったはずの桜にも若葉が茂り始めていて、名無しさんは巡る季節を噛みしめるように窓ガラスに囲まれた景色を眺めていた。



「久しぶりやな、」




少し低めの声と共に南は名無しさんの前に現れた。
使い込まれたPORTERの鞄がやや乱雑に向かいの座席に置かれ、南も足を広げてその隣に腰かける。
ソファの明るいクリーム色は彼には似合わないようで、色が浮く分だけ組まれた腕の長さが際立つ。
風一つない日にも関わらずシャツの衿は軽くはだけていた。





「久しぶり。元気やった?」



「まあボチボチや。髪切ったんや」

少し軽くなった髪がこれからの陽気によく似合う。そう思いながら南は目を細めて名無しさんを眺めた。





「そう、少しだけやけど。南は変わらんな。…なぁ、今シラバス持っとる?見してくれへん?」



久しぶりに恋人と会う。いや、恋人になってから久しぶりに会う。
お互いに相手の様子を推し量り距離感を上手く掴めないでいるこの空気を変えようと、名無しさんは言葉を発した。




「ほれ」

差し出された真新しいシラバスは所々ページが折られていて、南が真面目にそれを読んでいるとわかる。




基礎有機化学、構造学、薬史学、薬学概論、薬用植物学、生理学I、基礎生物実習。


“研究者の卵達よ、まずは入学おめでとう。共にいざ漕ぎいでん薬学の海へ”
“毎回出欠を取り、レポートを課す。勉学に励む諸君こそ来られたし。”




シラバスに学生を鼓舞するような文句が並ぶのは名無しさんの大学も同じだ。だけどこれを見れば数年間自分達が全く違う時間を過ごすのだという事がよくわかる。
それに焦るからこそ、ページをめくる名無しさんの指が段々早くなる。




「あ、代数学と基礎統計学やったらウチのカリキュラムにもあるわ」



「それ必修やねん。同じ先生なんやけど真面目にやらんと単位厳しいらしいわ、噂やけど」




「南はどっかサークル入るつもりある?」



「わからへん、悩んどるとこや。入った方がテストん時とか便利そうやけど、そんな暇あるんかわからんしな」





単語カードを捲るような、或いは一問一答のような会話が続く。まあ自分達らしいというかなんというか。




「そろそろ行こか」


先に出ときという言葉と共に扉が開けられ、外に出される。
慣れない扱いに大人しく払われといてええんやろかと戸惑いながら、名無しさんは我も我もと言わんばかりにぐちゃぐちゃに突っ込まれた駅前の駐輪場に目を向けた。
そしてぼんやり南を待つ気にもならず、そのまま場内に足を踏み入れてみる。

向きもバラバラに置かれた自転車の山が今の自分に重なる。不意にそう思った。




新生活に胸が踊りながらも緊張と不安に包まれ、南と会えて嬉しいのに違う学舎に身を置く事実にどこかが震えている。
相反する思い同士がそっぽを向いて、自分だけが取り残されてしまったようなそんな気分だ。



古いドアベルからカラカランと音が鳴り、鞄を肩に掛けた南がこちらに歩いてきた。彼はそのまま名無しさんの前を通りすぎる。







「南、駅あっちやけど」




「ここでえーねん」



そう呟いた南は真っ直ぐにある一点に向かって進んで止まった。


意外にも彼の目の前にあるのは大きめのバイク。
よく磨かれた黒い車体には流れるようなフォントでCYGNUSと記されている。シグナス、白鳥座か。目の前の機械の固まりはさておき、白鳥なんて言葉は南には似合わない。




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