よろず

□夜に溺れる
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いて、と反射的に声が漏れた。

指の先を見つめれば、あっという間に赤い線が浮き出てくる。
やっちまったなーと頭の中で呟きながら、血が付かないように気を付けて、机上の参考書を鞄にしまった。



まあすぐに止まるだろう。

じんわり痛む指先を意識的に無視して、重たい鞄を肩にかけた。


「ありがとうございましたー」
「お疲れ様ー。……あれ、ちょっと待って」
「なんですか?」


壁にプリントを張る先生の横を通ると、彼に声をかけられた。

周りに自分しかいないから、俺のことだとわかったものの、特に声がかかるようなことをした覚えはない。
俺は首を傾げて彼を見た。


「なに?槙原先生」
「いや、何っていうか、指」
「?……あー、まあ、ちょっとだし。大丈夫」
「大丈夫なのはいいからおいで。絆創膏貼ってあげる」
「いや、いいって別に……っまって先生、急にひっぱんないで……!」


あっという間に講師室に連れ込まれて、誰のかわからない椅子に座らされた。

先生は自分の机や鞄を漁って、絆創膏を探している。
俺は手持無沙汰に、先生の横顔を眺めていた。

ほんとは持ってないんじゃないのと思った頃、漸く先生は目当てのものを引っ張り出した。


「あった!あったよ古川君、絆創膏」
「おめでとーございます」
「ありがとーございます」


一仕事終えたような、すっきりした笑顔を見て、喉まで出ていた言葉を飲み込んだ。

先生、もう血は乾いてしまったよ。

俺より年上な、大人の男の人なのに、先生の笑顔は無邪気だった。
こっちまでつられて、笑みを浮かべてしまうほど。


「先生、普段から絆創膏持ち歩いてるの?」
「んー?うーん、まあ。ほら、指出して」
「はーい。女子力高いんだ」
「それ嬉しくないんだけど……」


不満そうに先生がうなる。

だって褒めてないし、と内心で笑って指先を見た。
きつく巻かれた絆創膏に、止まったはずの血が滲む。


「きつすぎてむしろ痛いのですが」
「あれ、そんなにきつい?」
「ちょっと」
「我慢!男の子だもんね!」
「いやいや、なんかそれおかしくない?」


平気だって言ってるのに、無理やり巻いたの先生じゃん。

彼の傍若無人さに少し笑う。先生も楽しそうに少し笑った。

ひそやかな笑い声が納まると、先生がぽつりと呟いた。
呟いたっていうか、トーンは普段と変わらなかったと思う。
だけどなんだか、不思議に響いた。

この人の言葉って、時折そんな力を持つ。
大地に水が染むのと同じ自然さで、言葉が内に渡っていくのだ。


「大丈夫なんて、簡単に言わないよ。心配だから声をかけるんだ。心配なことは、取り除かないと。なくなったら、ふたりとも笑えるじゃない」
「……うん」
「って、絆創膏はっただけなんだけどね」
「そうだよ。っていうか、先生の方が気付いたら大怪我して、心配かけてそうだよな」
「そうかなーー」
「お人よしだからさ。気を付けないと」
「うーん……?」


心当たりがあるのか知らないが、先生は僅かばかり目を泳がせた。
俺は呆れを含んだ笑みを、口の端に浮かべる。


「これからは気を付けて」
「そんなんじゃないと思うけどな……」


ちょっと馴れ馴れしかったかなと思ったけど、先生が気にした様子はない。
俺は彼に気付かれないように、横目で窓の外を見た。

日が長くなるのはまだ先の話で、暗い群青が空の色を支配する。
この闇に気付いたら、先生は俺を追い出してしまうだろう。


「古川君?」
「何でもないよ、槙原先生」
「そう?……ほら、そろそろ帰らないと」
「げ。なんだ、気付いてたんだ」
「何が?」


不思議そうに俺を見る先生。
ああ、俺が空を見ていたことに、気付いたわけじゃないんだな。

開き直って空を見上げると、先生もそうする姿が窓に映った。

蛍光灯の光が窓で反射して、映るのは部屋ばかり。
さらに深くなった天上の色はよく見えなくて、暗いことしかわからない。

催促にしては穏やかな声が、俺の名前をそっと呼んだ。


「お母さんが心配するよ」
「遅くなると、先生も心配?」


口をついて出た言葉に、先生は一瞬きょとんとして、それから口をへの字に曲げた。
怒った感じじゃなくて、なんかヘンな顔。むず痒そうな……嬉しそうな?


「するよ、心配。大事な生徒さんですから」
「……そっか。じゃあ、帰るよ先生。心配は取り除かないとね?」
「そうそう!」


立ち上がって、鞄を肩にかける。
先生は塾の出入り口まで、俺を見送りについてきてくれた。

壁にかかる時計を見て、なんだかんだ結構話し込んでいたのを知る。
急に申し訳なくなって顔を顰めた。

先生にも、きっと仕事があったはず。
俺に話しかけてくれたときだって、明らかに仕事中だったじゃないか。


「古川君?」
「あ、いや……。……先生、仕事の邪魔しちゃって、ごめん」
「そんなこと気にしないの」


何でもないことのように先生は笑う。

先生と話していると、なんだか安心している自分がいた。
今だって、家にいるときと同じように安らいでいる。


「じゃあ、またね古川君。出した宿題、忘れないでね!」
「はーい。頑張るからさ、先生俺ばっかり当てたりしないで!」


ぱたん、と後ろで扉が閉まった。

夜の風が、なんだかとても冷たく感じる。


別れ際にぽんぽんと肩をたたかれた感触が、やけにリアルに残っていた。








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