Nin

□それはなんとあたたかい
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血に濡れたこの手が新しい命を掴めるとは思わなかった。



門にいつもの彼女がいない代わりに吉野先生が入門票を持って立っていた。書いて下さいという言葉にトゲを感じる。別に悪いことはしてないし、あまり関わったこともない。繋がりといえば事務員の彼女ぐらい。小松田さんはどうしたんですかと尋ねても答えず、早く山田先生のところへ行ったらどうですかと冷たく言われた。確かにそうだけれどもこの人はこんなに冷たい人だったろうか。答えも言い返す言葉もないので職員室に向かった。
廊下ですれ違う生徒たちにじろじろと見られる。羨望ではない好奇の眼差し、少数の冷たい視線。以前は尊敬の眼差しだったのだがどうしたのだろう。彼らに何かしたか、自問自答しても何もでない。父上にその疑問を聞いても小松田さんに聞きなさいと言うだけ。よく分からない。自分を大切にしろ、責任を持て。いつもより厳しい言葉。本当は喜んでいるんだよと土井先生がこっそり教えてくれた。喜んでいるって何が。
彼女は自分の部屋にいた。疑問をぶつけても口籠もって答えを言わない。言いたいことがあるならはっきりと言え、イライラする。お茶を煎れてくると障子を開ける彼女を追いかけた。お茶はいいから早く答えろ。脅したのに彼女は腹を押さえ、下を向いたまま。実はですねあのですねそのですね。殴ればすぐに返事はくるだろうか。拳を頭に降ろそうとしたとき、後ろから殺気と共に白い何かが飛んできた。これは…………トイレットペーパー。妊婦に何するんですか!声と同時にまたトイレットペーパーが降ってくる。確かこの声は不幸で有名な善宝寺伊作だったか(正解は善法寺)。妊婦?何を言っている。妊婦って誰だ。この場に女は一人しかいない。まさかまさかまさか。利吉さんの赤ちゃんがいるんですと彼女が答えを告げた。

一昨日のことでした。食堂で食べていると急に気持ち悪くなって戻してしまったんです。新野先生はつわりだって教えてくれました。そういえば最近酸っぱいものが欲しくなっていたなあ。新野先生は直接言わなかったけれども妊娠したことぐらい私にだって分かります。ただ現実感がなく、他人事ように思えました。戻してしまって食堂のおばちゃんに申し訳ないな。驚かせてしまったな。その後すぐに山田先生が息子がすまないと謝ってきてくれました。妊娠させてしまってすまない、と。それでやっと自分が妊娠したことを認められたんです。ポロポロと涙がでました。山田先生はずっとすまないすまないと言っていました。悲しいんじゃありません、嬉しいんです。涙声の言葉に山田先生は私を抱きしめてありがとうと言ってくれました。利吉さんの子どもができてとても幸せです。お腹触って下さい、この中にいるんですよ。ほらあたたかいでしょう。私はこの子を産みたい。利吉さん、許してくれますか。あれ、利吉さん泣いているんですか。すみません。すみません。




謝るんじゃない。嬉しいんだから。二つの命を抱きしめた。

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