Nin

□世界の反転
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いつ反転するのか怖くて怖くてたまらない。


顔を見れば皺がうかび、話しかければ貶された。苛々すると言われるのは日常で殴られることも少なくない(大抵僕の失敗の所為)。それでも僕は話しかけ、サインを下さいと笑顔でいた。彼は僕の憧れ、尊敬している人。どんなに虐げられても彼のことが好きだった。嫌われていると思っても彼のことが好きだった。
ある日突然、彼は僕のことが好きだと言った。嬉しくて涙が零れる。勿論頷いた。彼の腕が伸ばされる。優しく抱きしめられる日がくるなんて誰が予想しただろう。これは夢なのですか。いいや夢ではないよ。つねられる代わりに口づけられた。
想いが成就するというのはとても幸せで、何をやっても彼のことを思い出して笑みが零れる。仕事はいつもより楽しいし学園長に怒られてもすぐに立ち直れた。世界の反転。雀が歌っている。花が美しく咲いている。おばちゃんのランチは湯気がたって美味しそう。暖かい太陽の光。普段は気にしないことに感動を覚える。彼はいつ帰ってくるのだろう。帰ってきたら何を話そう。そればかり考えた。
幸せに浸っていると、ふっと不安がよぎった。もしかしてこれは空言ではないのか、夢ではないのか。世界の反転。冷水を浴びせられる。あんなに僕を嫌っていた彼が好きになってくれるわけがない。傷つけるための演技という可能性を捨てきれない。浮かれてしまって悲しむのは自分。感情が大きければ大きいほど悲しみも大きいことは知っている。早く早く帰ってきて下さい。僕はあなたを純粋に愛したいのです。
僕がおかえりなさいと言うと彼は微笑んで抱きしめてくる。心があたたかくなる。彼は僕をちゃんと愛してくれているじゃないか、不安なんて愚かな感情。世界の反転。利吉さん愛してます。私もだよ。ほうら相思相愛。君にこれをあげる。綺麗な簪ですね。君に似合うと思って買ったんだよ。ありがとうございます、でも僕はまだ女装ができません。大丈夫、私が化粧をしてあげるから。簪を挿してくれる手はとても優しい。あ、入門票にサイン下さい…………どうして笑っているんですか。だって君が入門票よりも私のことを考えていてくれたから。口づけが降ってきた。
彼が去っていつもの日々。世界の反転。僕は門の掃除をする。僕はプリントを持っていく。僕は転んでプリントをばらまく。僕は吉野先生に怒られる。僕は落ち込む。落ち込んで彼を思い出す。思い出してまた落ち込む。彼は本当に僕を愛しているのか。何にもできない僕なのに、彼とは何もかも違うのに。
そのことを彼に告げると私のことは嫌いかと尋ねられた。いいえ好きです大好きです。私も君が好きだ、愛している。相思相愛、不安などいらない。世界の反転。僕は幸せ者なんですね。それは間違っているよ小松田君、『僕ら』に訂正しなさい。あはは、そうですね。




幸せだからこそ崩れるのが怖い。いつまでも不安が付き纏う。いっそ不幸だったらこんな気持ちにならなかったのに。世界の反転。

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