Nin

□あなたの幸せのために
1ページ/1ページ


 ただあなたの幸せを願って



 夜、手紙が届いたとヘムヘムがわたしの部屋に来る。決して長い指ではないのに物を持てるなんて器用なこと。口にくわえればよいのに。右手で受けとって、左手で頭を撫でてあげると嬉しそうな顔をした。犬って可愛いなあ。わたしも機会があれば飼いたい。二足歩行しなくてもよいから、と歩いて帰るヘムヘムを見ながら思う。さてさて手紙の差出人は兄らしい。内容を読んでとうとうこの日が来たのだとわかった。今まで自由にさせてもらっていたのだ。まず学園長に伝えて、吉野先生にも伝えて、……彼にも言わなければ。わたしの好きな人。引き止めてもらいたいなんて思ってはいない。告げずに行くのは嫌だから。そう理由を付けて。
 彼は翌日に来た。よかった、会えなかったらどうしようかと思ったのだ。入門票にはいつの間にか山田利吉と綺麗な字で書いてある。束ねた黒髪はさらさらと舞い、毛の一本一本まで完璧なのだと思った。おかえりなさい、利吉さん。秀、ただいま。にこりと微笑む彼。わたしの好きな表情。用事が終わったら、わたしの部屋に来てくれませんか。彼は頷いてそのまま校舎に入っていった。この後ろ姿を見るのは数え切れぬほど。何度行ってらっしゃいと言っただろう。何度おかえりなさいと言っただろう。あと何回彼に言えるだろう。もしかしたら言えないかもしれない。早く仕事を済ましてしまおう、彼と過ごせる時間は少ないのだから。いつの間にかヘムヘムが心配そうにわたしを見上げている。わたし、変な顔してる?ヘム……と悲しげに鳴いた。
 お茶とお菓子の準備が終わったところで障子が開いた。もう仕事終わったんだね、秀。利吉さんに会いたくて早く終わらせたんですよ。お茶を渡そうとして指が触れる。なんだか恥ずかしくて嬉しくて、ふふと笑ってしまった。彼もわたしを見て微笑む。何度も触っているだろう。そうですよね。でも変わらず嬉しいのはやっぱり彼が好きだからなのだ。心地よい冷たさの大きな手。そろそろ離してくれないかな。え、あっすみません。ずっと湯呑みを持ったままだった。これでは彼がお茶を飲めない。手を離すとそのまま湯呑みは彼の唇へ運ばれた。ごくんと動く喉。止まる会話。今が話すべきだと思う。この穏やかな時間は終わるだろう。利吉さん、わたしは明日学園を出ます。彼は目を大きく開いてこちらを見、どうしてと静かに言った。お兄ちゃんから手紙が届いたんです。わたしは説明をする。わたしに縁談の話がきていること、縁談の相手が店のお得意様のこと、わたしのことを甚く気に入ってくれていること、だから確実に結婚することを。忍者にはなれないでしょうね。君は行くんだね。はい、もうお別れなんです。そう、と言って彼はお茶を飲む。引き止めはしない。もしかしたらわたしのように真剣に愛していたわけではないのかもしれない。でもそれでいいのだ。彼は忍者。危険な仕事をする人。非力なわたしが共にいても足手まといになるだけ。彼に幸せになってもらいたい。わたしは邪魔者だ。彼の大きな手がこちらに伸びる。気が付けば彼の懐にいた。別れは明日なんだろう?ぎゅうと抱き締められるのもこれで最後。離れても、利吉さんの幸せを願っています。君は酷いことを言うね。え?どうしてと聞こうとしたけれど、口を塞がれてしまった。
 布団をしまって、荷物を風呂敷に入れて、部屋を綺麗にして、去る準備は完了。生徒は授業中なので見送りは彼だけだ。今まで自分は沢山の人を見送ったけれども、去る背中を見られるのは数少ないかもしれない。いってらっしゃい。涙が溢れてくる。でもこれを見せたら引き止めてくれと言っているようなものだ。振り向かずに前へ前へと足を進める。声が震えないように手を力強くぎゅっと握り締めた。



 さようなら









 ただの偵察でも戦場帰りは血の匂いが付いたような気がする。一応着替え(というより変装)をしたのだけれど肌にこびり付いているような感覚。最近は争いが増え、忍者は若輩だろうが熟練だろうが駆り出されるようになってしまった。仕事に困ることはないけれど、物騒な世の中だ。彼女が忍者にならなくてよかった。なるべく死から遠ざけたかった。私は忍者。いつ殺されてもおかしくはないし、共にいることで一緒に狙われる可能性もある。私といてはいけないのだ。……ああ何だかイライラしてきた。風の噂で結婚をした扇子屋の娘に子供ができたと聞いた。もし本当ならば、彼女は幸せになったのだろう。



 彼女が見知らぬ男の赤ん坊を抱いて微笑むことを想像する。私自身が望んだ未来なのに、胸が苦しかった。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ