Nin

□折れた傘
1ページ/1ページ


イヤホンから流れる愛の歌。男同士の曲はないようだ。



大学は駅から数分の場所に位置しています。何だ楽じゃないか、と思って附属高校に入学してバス通学。誤算。大学は駅前にあるのだが、高校は徒歩40分かかる場所にあったのである。大学『は』に注目しておけば良かった。高校生活三年目になっても引き摺っている自分は執念深い人間かもしれない。バスは歩かなくていいから楽じゃないか、と友人に言われたことがある。だがそれは大きな間違いだ。座っていれば楽だけれども、そうでないときは大変辛い。カーブが多いし、他校もいるから手すりに掴まることができないときもある。加えて座席は決して多いとは言えないので競争率は高いのだ。辛さを分かってもらえただろうか。

晴れの日。今日は後ろドア近くの席に座れた。二人用だから隣は知らぬ人。できれば窓側が良かった。視線を何処に向けていいか分からないからだ。イヤホンをつけて意味なく前をぼうと見る。リピートされる恋愛の歌は正直言って理解できない。胸が痛い、あなたのことしか考えられない、君がいないと生きていけない等々……歌ってないで病院に行け。一人のために思考が止まるなんてあり得ないし、恋人がいなくたって地球は回るし息はできる。馬鹿馬鹿しい。ガタン。バスが揺れる。人が限界まで入ったので動きだしたのだろう。あははと笑い声が聞こえた。学生同士の雑談は日常茶飯事だ。重要なのはバスの中ということ。話している内容が聞こえてしまう(盗み聞きではない、そんなに秘密にしたいなら余所で話せ)。笑っているのは自分より少し幼そうな少年。着ている制服は他校のブレザーである。何故だろうか、少年の笑顔に目が離せなかった。

雨の日。こんな日こそ座りたいのだが、座席は全て埋まっている。道路が混んでいるので、次のバスを待っていると遅刻してしまう。吊革を持てたことが幸運だ。どんどん入っていく人、満員電車ならぬ満員バス。あの少年もこのバスに、私の隣に乗っていた。持てるところが無いらしく、二本の足でぎりぎりのバランスを保っている。何度目かのカーブでとうとう彼のバランスが崩された。揺れて倒れそうになるのを思わず傘を離して支えてしまう。左腕に納まる彼の腰は細い。黙っているのも変なので、大丈夫かと声をかけた。はい、ありがとうございます。言ってすぐにまたカーブ。私に掴まる手。すみません……。いいよ、私に掴まって。でも傘が床に落ちたままです。確かに床に横たわってしかも踏まれている。骨が数本折れているし泥も付いているから使い物にならないだろう。気にしなくていい。カーブが近づいてきたので腰を少しキツく抱く。彼も気付いて私の学ランを掴んだ。何故だろうか、傘よりも彼に近づくほうが良いように感じたのだ。あの、もう着きますので。あ、ああそうだね。ありがとうございました。後ろ姿を見せられる。名残惜しいのは私だけか。バスの床に壊れた傘が落ちていた。幸せな一時の代償かもしれない。

曇りの日。今日は二人席の窓側に座った。隣は空席、寂しくはない。イヤホンから流れる愛の歌はいつもより心地よかった。『あなたがそばにいるだけで幸せ。』『あなたが目に映らないだけで世界が闇に染まる。』お隣いいですか?はい、いいですよ。振り向くとこないだの彼だった。ドクンと胸がなる。肩が当たりそうで当たらない近さ、触れたいのに触れられないもどかしさ。彼は膝の上に置いた鞄から黒い折り畳み傘を取り出した。これどうぞ、こないだのお礼です。雨の日のことなら別に気にしなくても良かったのに。いいえ、傘を壊してしまいましたから。傘の一本くらいどうでもよかった。私が好きでやったのだから、礼までもらうとはこちらも何かしないと申し訳ない。いや、申し訳ないとは言い訳で、本当はこの縁が続くようにと願っている。ねえ君、餡蜜は好き?大好きです。美味しい店を知っているんだ、傘のお礼に奢るよ。いいんですか!?目がキラキラと輝いている。良かった、当たりだ。そういえば名前を聞いてなかったね、私は山田利吉。僕は小松田秀作です、楽しみにしてますね。笑顔がすぐ近くにあった。



もらったアドレスをじっと眺める。彼のことが頭から離れない。これが恋なのだろうか。ため息が漏れた。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ