Title

□早朝の海辺、離れる、噂
1ページ/1ページ


今日は用事があるので出かけます。

そう言って、彼が背後から離れた。騒がしい彼がいなくなってよかった。折角の休日、静かに過ごしたい。
読みたかった本を手に取る。彼がいると「利吉さんは難しいのをよく読みますね」とか、「これはどういう意味なんですか」とか邪魔をするので集中できなかった。
無視なんかできるか。突然部屋が冷え、隅っこでさめざめと泣かれるのだ。淋しい淋しい。まるで自縛霊。
だから放っておくことができない。結局、彼も楽しめるテレビをつける。適当なバラエティーを見てケラケラ笑う姿を眺めるのだ。

今は静かな部屋だ。当たり前だった。一人暮らしなんだから。
読み終わって14:00。まだ昼食をとっていない。冷蔵庫を開けて、すぐに食べれるものがないか探す。運の悪いことに何もない。作るのも気が進まない。どうせ一人だしスーパーで買うか。彼がいても一人分だから何も変わらないけれど。


ついでに晩ご飯も買ってしまおう。弁当一つと唐揚げにサラダ。朝御飯用に食パン。朝に食パンを食べると何となくお洒落をしている気になった。実家が和食派だからかもしれない。
スーパーに入っている和菓子屋に行列ができている。普段ならこんなことはない。珍しい。
和菓子屋に沢山貼られている広告には『お彼岸』と大きく書かれ、美味しそうなおはぎの写真が写っていた。
ああ、そうだ。秋分の日だ。母がいつもおはぎを握っていた。沢山作りすぎて、おやつだけでなく夕食もおはぎになった。餡は封を切るとすぐに駄目になるからと言っていた。違う餡の菓子だったらまだ食べれると思った幼い頃。
懐かしい。これも何かの縁。列に並ぶ。
前の前の女性がおはぎを二十個注文し、前の女性が三十個注文した。そしてたった二つしか頼まない私。
彼も食べるだろうか。美味しいと笑うだろうか。『美味し』のあとに『そうだ』と淋しそうに微笑むかもしれない。
いつも太陽のように笑うのに、悲しげな笑みをすることがある。するとこちらも胸を締め付けられてしまう。苦しくて、慰めることも出来ず、話を逸らしていた。


夜になる。一人の夕食。彼は帰ってこない。
煩いのがいなくなったのだ。静かな生活に戻る。それに彼は世間一般の危ない目にはあわない。心配をする必要はない。
耐えられなくなる前にテレビをつけた。早朝の海辺。海に投げられる菊の花束。拝む人々。
海の向こうに人がいる。人ではない人。彼岸の人。噂とか迷信とか色々あるけれど、実際見たほうが理解が早い。見れる人は滅多にいないけれど。

彼の用事はきっと、これだ。彼にも子孫がいて、花をくれる人がいる。見えてはいないけれど、彼は見たいのだろう。そして感謝し、聞こえない礼をする。成仏の階段を昇る。

成仏してしまえばいい。そうすれば生きている幸せを受け取れる。寂しい笑顔をする必要がない。
だが、彼のいない今は、物足りない。ただ、生きている。それだけだ。
いつの間にか彼がいることが当たり前になっていた。日常だった。いなくなってから気付く。馬鹿みたいだ。

「やり残したことがあるんだろう」

酒を飲んで、意識をとばそうとする。目を覚ましたら、彼の顔がありますように。




利吉さん、朝ですよう。

急に首筋が冷たくなり、目を開ける。ただいま帰りました、と彼が笑った。



早朝の海辺、離れる、噂




[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ