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□12.囁く
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12.囁く

 
「はっくしゅん!」

 春というにはまだ肌寒くて、僕はピンク色のカーディガンの上に薄手のコートを羽織っていた。ちなみにカーディガンは私服ではなく、衣装だ。けして趣味ではない。
 今日の仕事はドラマ出演だった。二時間サスペンスドラマの主人公と親しい友人に話しかけられる女性の役。
 そう、この仕事は秀作ではなくシュウに来たのだ。しかも女性。男の自分としては少し落ち込む。
 いただいた台本はほかの出演者と比べて薄っぺらい。普通、全体を通しての台本が配布されるはずだと思うのだけれど、今回の監督はその役が出ているシーン分だけしか渡さないらしい。犯人が分かってしまったら面白くない、というのが監督の考えだ。 
 
「シュウさん、大丈夫?」

「はい、ちゃんと練習してきました!」

「……体調について心配したつもりだったんだけどね」

 主人公の友人、直人役を務める利吉さんは相変わらずイケメンオーラを放っている。右手にあるのは分厚い台本。さすが、友人級の役。
 もし僕が有名になったら、今より十倍厚い台本がもらえるだろう。けれどきっと直人のようなイケメン設定の役をすることはない。僕は人を驚かせるほど顔立ちが整っているわけでもないし、男前というわけでもないと自覚しているからだ。
 今回撮るのは公園のシーン。セッティングができたとメガホンで呼ばれた。コートと台本を近くのスタッフに預けて、ポニーテールを軽く手櫛で梳きながら噴水の前に行った。ここで直人に話しかけられるのである。
 小さなバックを両手で持ち、いかにも誰かと待ち合わせしていますという風を装う。
 カンッと音が鳴って演技開始。直人が人の良さそうな顔で近づいてくる。すみません、と声を掛けられて目を合わせた。

「この男を知りませんか?」

 ちらりと見せられた写真。ゆっくりと首を振る。礼を言いながら去る直人。たったこれだけのシーン。
 たったこれだけのシーンでNGが出された。監督に呼ばれてしまう。

「直人はかっこいいんだ。女ならば顔を赤くするくらいに!」

 赤いサングラスを光らせて力強く説明する監督。派手な金色のズボンまで輝いている。
 しかしそんなこと言っても僕は男なのだから、いくら顔が整っていても恋することはないと思う。

「だったら女の子に演技してもらったほうがいいと思うんですけど」

「いいや、君でなくては駄目なんだ!」

 どうして。通販で違うものを注文するのと同じ要領で女優と間違えて僕を選んでしまったのかな。
 あのきんきらズボンだって間違えて注文したに違いない。

「少し練習しようか」

 ああ天の声!利吉さんがにっこり微笑んでいる。
 でも顔を真っ赤にする練習ってなんだろう。体温を急上昇させるとか?
 そっと、彼の唇が近付く。耳に触れるか触れないかのところで囁かれた。

「こないだのキスはどうだった?」

 ふっと吐息がかかる。
 こないだの、キス。観覧車の前でみんなの前でカメラの前で唇が唇に近付いて。それはとても柔らかくて、長く感じて。……ファーストキスで。

「思い出した?」

 綺麗な笑みを浮かべているけれど、なんとなく瞳が鋭くなっている気がする。
 ああ、あのシーンが脳内で再生される。きっと他の男性と一緒でほっぺにちゅーだと思ったのだ。しかも自分は男。そんな物好きはなかなかいないし、そんな思考は事務所NGが入る(多分)。だから油断していた。予想外だった。兄が荒ぶる熊のように怒っていたのを覚えている。

「さあ、もう一回やってみようか」

 手を引っ張られて噴水の前に立った。水面の僕が顔を真っ赤にさせている。胸がドキドキと高鳴り、妙に身体が緊張してしまう。
 こんなふうになってしまうなんて。そうこれは。


 まるで恋をしたかのような。





 ということがあったのだと後日リビングで兄に話すと、そうかそうかと頷かれた。

「利吉さんは演技が上手いんだね」

 ああ成る程、だから僕の動悸は速くなってしまったのか。
 さすが利吉さん! と納得してしまうのであった。

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