曖昧な僕ら。
□バレンタイン
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部屋に充満する甘い匂い。
こいつを拾って良かったと思う瞬間の一つだ。
毎年毎年、律義な同居人はイベントの度に腕を振るう。
本職ではないからそう大したものが出来るわけではないのだが、それでもまた食いたいと次を期待してしまう謎はまだ解けていない。
〜♪
「おおッ!思ったより上手に出来た!」
オーブンの仕事を終えた合図と、キッチンから聞こえた歓声に顔を上げる。
Bの、もこもこに覆われた手には四角い型が握られていた。
「それ全部チョコレートか?どんだけ作ったんだよ。」
「チョコレートブラウニーだよ。ケーキ。」
「四角いケーキ?」
「ケーキは全部丸いと思ってたの?」
「去年は丸だっただろ。」
「そりゃ去年のはガトーショコラだもん。Aって本当に甘い物が好きなの?」
呆れたBはケーキの型を置いて手からもこもこを外し、後片付けを再開した。
もう終わりなのかと、甘い物に目が無い俺としてはどうしても気になる。
「俺の分は?」
「うん?これ、うちの分だよ?」
「いや、バイト先に持ってくんじゃねえの?」
「…ああ、そっか。なんだかんだ言ってAとバレンタイン当日に一緒に過ごすのは初めてなのか。」
Bは下を向いたせいでずれた眼鏡を指先で直しながら、苦い顔を上げた。
「バイト先に持って行ったのは最初だけ。持って行ったら女の子達が微妙な顔したからそれから持って行かない事にした。」
「…ああ。」
女子力とやらでこの瓶底眼鏡に負けたのか。
美味いし悔しいし、でも相手は悪気が無いし、そりゃ複雑だったろう。
可哀想に。
何にせよ、安心した。
あのケーキは俺のものだ。
仕事や女と遊んでた所為で出来たてを逃して来たのはかなり残念だった。
今日こそは熱々をいただいてやる。
「ふふ。ご期待に添えず、申し訳無いけど粗熱とらないと型から出せないし、このケーキは少し時間を置いた方が美味しいんだよ。」
「…え。」
呆れた様なが余計だが、楽しそうに笑うBは水道を止めて手を拭いた。
「その間、デートに行こうよ。見たいDVDがあるんだ。Aもこの匂いを嗅ぎながらお預け喰らうのは辛いでしょ?ほらほら、立って。準備、準備!」
Bはあからさまに面倒臭がる俺の腕を掴んで強引に引っ張る。
「今日はやけに絡むな」と思ったら、「今こいつ彼女いねえんだ」と気付いた。
イベントごとが好きなBにとって、このイベントを謳歌する為の必要条件、彼女がいないのは残念極まりないだろう。
相手を選ばず瓶底眼鏡を外して髪を下ろして漫画か何かで口説き文句を仕入れりゃ直ぐに女の一人や二人出来るだろうに、この馬鹿は頑なに“僕流”を貫く。
「どうせAだって暇なんでしょ?」
「言ってくれんじゃねえか。」
「ん?何か文句あんの?ケーキあげないよ?」
「それは困る。」
「じゃあ付き合って。」
「喜んで。」
「あはは!」
男は胃袋を掴まれたら負けだと言うが、本当だと思う。
嬉しそうなBの手を掴み返し、立たされてやった。