曖昧な僕ら。


□鳴らない電話
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それは僕がAと暮らし始めて、一ヶ月目の事だった。
まだ僕は携帯すら持っていなくて、バイトもしてなくて、特に必要性も感じてなかった。
連絡なんてAに掛けるか掛かって来るか、僕より古株の固定電話先輩に頼ればそれで充分だった。
先輩は時代の波に埋もれ、長らく使われる事は無く、持ち主にもその存在を忘れられてしまっていた。
だからそんな物があるなんて教えて貰って無かった僕は最初、家の中で突如鳴り出した電子音に心臓が口から飛び出そうな程驚き、暫くしてそれが電話だって気付いて探し回った。
しかし、いくら探し回っても見つからず、一度深呼吸をして、目を閉じて耳を澄ました。

「目で見るな。感じろ。感じるんだ。…ここだ!」

見つけた場所は元は電話台代わりだったろう戸棚の後ろ。
逆さまで壁と戸棚の背にぴったり挟まれた先輩は、埃だらけだった。
その後、Aは自分だってその時初めて存在を思い出したくせに、直ぐに出なかった僕を一時間に渡り苛め倒した。
そんなこんなでまた日の目を見る事になった先輩はストイックで、今時の浮ついた便利機能は無く発着信履歴に番号を表示してくれるだけだったけど、A以外僕の事を知らない世界では特に問題は無かった。

その時までは。

「おかえり、A。」

「おう。」

珍しく人並みの時間に帰宅した、恐らく薄汚れた家主がリビングまで上がって来る前に風呂に押し込もうと、Bは夕食を作る手を止めてエプロンで拭ってキッチンから顔を出した。

「夕ご飯まだだから先にお風呂入って。」

「はあ?とっとと作っとけよ、間抜け。」

「だったら電話しろ、下さい。」

Aに睨まれたBはさっと隠れ、溜め息を吐いたAはその場で脱ぎ始めた。
だからいきなり鳴り始めた電話は、Aからではない。

「あれ?珍しい。」

「うるせえ。切れ。」

「いやいや、Aに用があるんでしょ?子機持って来てあげるから出ろよ。」

「…。」

Aに背を向けたBは、見送るAの難しい顔を見る事は出来なかった。

「はい。って、おい!?」

AはBから子機を受け取り、直ぐに切ってBに投げ返した。
Bは驚愕だ。

「誰かからくらい確認してから切れば!?あんた人間として終わってるぞ!」

「その人間終わってる奴に盾突くたあ、勇気ある瓶底だな。余程硬いと見える。」

「すんませんっしたあ!」

Vサインを水平にしてBに的を付けるAに、Bは慌てて尻を引いて腰を直角に折った。
その頭頂部を軽く蹴り飛ばしたAは風呂の戸を閉める前に、床に転がり静かになったBと子機を振り返った。

「俺に用があるなら携帯に掛け直して来る。おまえに用があるのは俺だけだ。出る必要はねえ。」

「…。」

Bは暫く擦りガラス越しにAを見上げていたが、ハッとして立ち上がった。

「そうだ。ねえ、A。僕、バイトが決まったよ。」

「あ?聞こえねえ。」

「だから、」

水音が止んだのを見計らいBは風呂の戸を開けたが、思いっきり熱湯を掛けられた。
良い子は真似しないで下さい。

「ぶはッ!?あっちぃぃぃ!!」

「いやん、エッチ。」

「危ないしふざけんなよ、おっさん!誰が傷だらけでガチムチしたあんたの風呂覗きたがるんだよ!」

「じゃあ何だよ。」

「バイトが決まったんだよ!昼間、電話があったんだ!」

「ほお、そりゃ良かったな。」

「だから、」

これから出る必要はあるだろと続けようとしたが、Bは髪から垂れて来た水滴が邪魔をするので拳で拭い、改めて床を見て腹が立った。

「本っ当にふざけんな!誰がこの水浸しの脱衣所を掃除すると思ってんだ!」

「おい、何か変な臭いすんぞ。」

「は?すん、すん。」

A程鼻が良くないBはAが使う石鹸の匂いしか嗅げないが、直ぐにハッとした。

「お鍋が吹き零れたのか!」

自分がびしょ濡れな事を思い出し二の足を踏んだが、取り返しが付かない方を取った。

「畜生!覚えてろーッ!!」

「ぎゃはは!」

Aが風呂から出た時、Bは哀愁を漂わせながらびしょ濡れの廊下を掃除していた。

 

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