枢様以外

□儚い希望
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雨の日。
冬の雨は冷たいの。
寒いというよりも冷たいの。
冷たくて、痛いの。
ちぎれそうなくらい、冷たいの。

「マッチ、マッチはいかがですか」

軒先の下で雨宿り。
がたがた震えて青くなった唇。奥歯がかみ合わなくてうまく話せない。
でも大きな声をださなくちゃ。
大きな声をだして、マッチを売らなくちゃ。
だって、マッチを売らなくちゃおうちに帰れない。
とうさん、売り切るまで帰ってくるなって言ってたもの。

「マッチ、マッチはいかかですか、だれかマッチ、マッチは…」

一年の最後の日。
皆、早足で家路につくの。
皆、寒さに身を縮めて早足で家路につくの。
皆、わたしの声、聞こえていないのかしら。
皆、忙しくて聞こえないのかしら。

冷たい、手が冷たい、冷たい、ちぎれてしまいそう。
ふぅふぅと息をかけてみる。
おててにいきをふきかけてみる。
でもどうしてかしら。
吹きかける息も冷たいの。

「マッチ、マッチは…」

「お姉ちゃん、一本ちょうだい、マッチをちょうだいな」

声の方に振り返れば小さな男の子が立っていて、
ぼろを身にまとった男の子が立っていて、
見るからにその子は孤児だってわかっちゃった。

だって、お靴をはいてないもの。
雨に濡れたあんよ、痛々しいくらいに真っ赤なんだもの。

「おねえちゃん、マッチをちょうだい、マッチをちょうだいな」

「これは売り物だからあげれないの。父さんに怒られてしまうから…」

「そっか…」

ああ、そんなに悲しい顔をしないで。
お願いだからそんなに悲しい顔をしないで。
可哀想な子。お靴もはけなくて、可哀想な子。

「…代わりに、わたしのおくつをあげる」

「い、いいのかい?」

「いいの。だから早くどこか温かいところにお行きなさい」

ああ、そんなところ、あるのかしら。
可哀想な坊やに温かい居場所なんて、あるのかしら。

「うん!ありがとう!」

無邪気な笑顔。
可哀想な坊や。
神様、可哀想な坊やにどうぞ一切れのパンと温かなミルクを与えてやってください。
走り去る坊や。
どこへ行くの、どこへ駆けて行くの、どこか行き場所がありますように。

「あ…雪…」

雨は雪にかわる。
みぞれから雪にかわる。
ひらひらと舞い降りてくる冬の妖精。
綺麗なのに、冷たい妖精。

「マッチ、マッチはいかがですか」

ああ、冷たい。

「マッチ、誰かマッチはいかがですか」

ああ、夜が濃くなっていく。
夕暮れはどこへ行ってしまったの。
夜はどこから来るの。
早足の人々はどこへ向かうの。
わたしもどこかへ行けるのかしら。
いつか、早足で帰る場所が出来るのかしら。



雪は降る。雪が降る。コンコン、コンコンと雪が降りつもる。
街角のカフェ。温かなカフェ。
その窓側の席からマッチ売りの少女を見つめる二つの影。

「…枢、あの子…ずっとあそこにいるね?」

「ああ、そうだね…」

「マッチ、買ってあげる?」

「買い占めるのは簡単なことだけれど…その場しのぎにしかならないよ」

「それは…そうなんだけど…」

深い碧色の瞳が少女を捉える。
真っ白な雪に真っ赤な手足が痛々しい。
吐く息が白い。吐く息はどこまでも白い。
吐かれた白い息は空気に溶けて、冬の冷たい空気に溶けて消えていった。

白く曇る窓の向こうは銀世界。
銀世界で一人佇む憐れな少女。
それは悲劇的な童話の挿絵のようだった。
雪が降る。降って降って街を覆い尽くす。
深い白で街を閉ざす。深い白で街を覆い隠す。
雪は深くつもったけれど、まだまだ止む気配はない。

「…枢、その場しのぎかもしれないけど……やっぱりほおっておけないよ」

一つの影が立ち上がる。立ち上がり急ぎカフェをあとにして、
もう一つの影はやれやれといった具合に先に行った影のあとを追った。



「ま、っち…マッチは…」

冷たい、冷たい、ちぎれてしまいそう、痛い、痛い。
とうさん、ごめんなさい、一本だけ、一本だけ許して…



座り込んだ少女がマッチをすると、マッチの温かな光がぼんやり浮かび上がった。
白銀の世界にか弱く浮かび、少女の心をそっと包み込む。
ぼんやりとした世界。ぼんやりとしか見えない世界。
薄れていく世界。ぼんやりと薄れてゆく世界。

その世界に一つの影が見えた。
マッチの向こうに一つの影が見えた。
娘はその影をはっきりとした姿で確認することはもう叶わなかったけれど、
でも影の色は、影が綺麗な金髪をしているのはよく見えた。
金髪がきらきら輝いて、マッチは燃え尽きて、少女は目を閉じる。
誰にも聞き取れない小さな声で呟いて、目を閉じる。

「とうさ…ん…」

雪は少女の髪にも降り注ぐ。
今夜は大雪になりそうだ。

「きみ、大丈夫?ねえ、マッチなら全部買ってあげるから、もう家に帰りなよ」

座り込んだ少女に近づく影もとい一条という人物。
彼ははっと息を飲み込むと、押し黙ったまま少女を見下ろし、
そしてそのあとから追いついてきたもう一つの影、枢と呼ばれた人物は怪訝そうに声をかける。

「一条、どうしたの…?買うなら、早く…」

「……もう……死んでる…」

「……可哀想だけど、仕方がない…こんなことは日常茶飯事だから…」

「そんなの、分かってる!分かってるけど…やっぱり、やりきれないよ…」

「…うん、そうだね…」

雪は亡骸を隠すように降り積もる。
雪は悲しみのように深く降り積もる。
雪に埋まっていく少女。
彼女は穏やかに、微笑んでいた。

「マッチ、一本だけ使ったみたい。あったかかったのかな、だから…笑ってるのかな」

「…さぁ、どうだろうね…」

「結局、僕はその場しのぎ程度のことも出来なかったみたい」

「…そろそろ帰ろう。きっと今夜は吹雪く」


足早に帰路につく人々は知らない。
街角で小さな命が失われたことを知らない。
闇夜に溶けていく二つの影は知っている。
街角で小さな命の灯火が燃え尽きたことを知っている。




けれど、娘の最期の言葉は誰も知らない。

─父さん

けれど、娘が最期に見たものは誰も知らない。

─父さん、優しい父さん

娘の髪は透きとおるような金髪であった。

─父さん、昔みたいに優しい、父さん

娘が最期に見たものは希望であった。

─迎えに来てくれたのね、父さん





一条は救っていた。娘の心を、救っていた。
けれど、彼はそのことを知らない。
けれど、彼だけではなく、誰も知らなかった。



一年で一番古い日の、一番最後の日のお話。

雪の日の、悲しいお話。

誰も知らない、冬の物語。

冬の、小さな物語。




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