□夢見鳥
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彼は従来より他者と深く接することを好まず、
屋敷においても日光も月光も光という存在が届かなそうな一番隅、一番奥にある自室からほとんど姿を現さなかった。
引っ越す前も引っ越したあとも彼はそういった一番陰鬱な部屋を自室に選んだ。

陰鬱な部屋に似つかわしい陰鬱な住人、枢は当然の如く友人の一人だっていやしなかった。

そんな彼と娘が出会ったのは意外にも夕焼け色に染まる公園。
小さくも大きくもなく、噴水からあふれる水しぶきも何もかもが茜色に飲み込まれる公園。

どんよりと暗い自室、お飾り程度に備え付けられた小さな窓に踏み台を置き、そこからぼんやりと外を眺めていると、
公園に、屋敷から少し行ったところにある公園に白い蝶が見えた。
朱色に支配される世界の中で、その蝶だけは白さを失わずふわふわと舞い、噴水の辺りをくるくると回っていた。

公園は決して遠くにあるわけではない。
それゆえに彼の目にも噴水を確認することが出来たのだが、流石に蝶を確認できるほど優れた視力を持っているわけではない。
それなら巨大な蝶なのだろうか。巨大な蝶は水浴びでもしにきたのだろうか。

枢は不思議そうにその蝶を眺め続けた。
その蝶から視線を外すことが出来なかった。
否、彼の二つの紅い眼はあの蝶を捉えるためだけに、今はもういない母親という存在に産み落とされたのではないか、
と知らず知らずの内思ってしまうほど、視線をずらそうとは微塵も脳裏に浮かばなかった。

蝶に心奪われていたがため、まばたきを忘れていると彼の眼球は乾き潤いが欲しいと叫ぶ。
それを無視しても叫び声は大きくなるばかりで、致し方ないといった風に彼は瞼を閉じては開く行為を何度か繰り返した。

そうしてようやく瞳に潤いが戻り、蝶を眺めようとすれば蝶は転んでいた。
花や枝に止まることはあれど、蝶が転ぶなど見たことも聞いたこともない。
しかし彼の瞳にはどうやったって蝶が転んでいるように見えた。そうとしか見えなかった。

彼は固唾を呑みながら蝶を見つめる。
蝶はなかなか起き上がらない。
もしかしたら羽を傷めて一人では上手く起き上がれないのかもしれない。
あの蝶は巨大だ。その巨大な羽は軽やかに見えたけれど、実際は随分と重たいのかもしれない。

そう案ずるより早く、自室を飛び出た枢。
キッチンに向かえば広い屋敷の何もかもを取り仕切ってくれる使用人が夕食の下ごしらえをしていた。

老木のように深い皺を刻み、老木のようにありとあらゆる知識を持った使用人は老婆だ。
彼の生まれたころにはもう老婆で、そして老婆はそれ以上老いることなく、当然若返ることもなく老婆であり続けている。
父親は早くに亡くし、他の使用人も存在せず、屋敷には彼と老婆の二人しか住んでいなかった。

枢はほとんど自室に閉じこもっていたため、屋敷のこまごまとしたことはほとんど分からず、
老婆に聞いて初めて包帯と消毒薬の在りかを知ることが出来た。老木のような女は屋敷のことなら何でも知っているのだ。

──何に使われるのでしょうか

そう目で尋ねた老婆は、血の匂いがしないことから枢が怪我をしたわけではないと分かっていた。
それでもあまり自室から出てこない枢が血相を変えて包帯の在りかなどを聞くものだから、
小さな主が珍しく興味を持ったものは何だろう、と気になったのだ。

「蝶。白い蝶」

枢はそれだけ言い残すと足早にキッチンを去る。急いで公園に行かねばならないから。
ぽつんと一人残された老婆は、はて?と首をかしげたが、
言葉の意味を深く探ることなく再び下ごしらえの続きに取り掛かろうとしていた。



◇◇◇



結果から申せば、蝶と思われたのは幼い少女であった。彼女は真っ白なポンチョをまとっていた。
ぷっくりとした小さな手を寒さから守るミトンも、
風にひらめくプリーツのスカートもハイソックスもエナメル靴も少女の存在さえも全てが白かった。

真綿でくるんだように全身を雪で固めたようにメレンゲの海に突き落とされたように白い蝶のように、全てが白く美しかった。

夕焼け色に燃える世界、赤錆を連想させ口の中が苦くなる世界、少女はどこまでも白かった。

唯一色をもっていたのは、血に彩られた膝ともう片方の薄っすらと桃色がかった膝だけ。
白い肌にその色はよく映えた。

枢が公園に辿り着くころにはもう一人で起き上がっていたけれど、それでも地面にぺたりと尻をつき、
血がにじむ膝を泣きもせず呆然といった具合に眺めていた。

枢は無言で彼女を引っ張り起こし、近くにあった水道で膝についた泥を洗い流してやると、
適当に消毒薬をふりかけ、不器用であったが不器用なりに丁寧に包帯を巻いてやり、
そして巻き上がった包帯は不様、不恰好という言葉がとてもよく似合っていた。

他者にはまるで興味を示さない枢。
しかし少女にはいくばかり、というよりも非常に強く興味をそそられた様で、
そうでも無ければ巻いたことなどない包帯などで他人を介抱することはおろか、
巨大な蝶は普通の少女であると肉眼に認めた際にひっそりと公園を立ち去っていただろう。

普通の少女、というのは少しばかり語弊がある。
少女は普通ではなかった。普通ではなく、ある種異様な美貌と妖しい魅力を鱗粉のように撒き散らしていた。
それは白のせいではない。
多分、少女が裸で寝そべっていても枢は彼女のことを白い蝶のように美しいと思っていたに違いない。
先ほども申し上げたように、少女は存在自体が白かった。

白く白く狂気を秘めた滑らかな象牙色。
白く美しい少女はきっと他の色に染まらない。例え漆黒にだって染まらない。
白い蝶は絶対である。絶対ゆえに他の色を喰らい尽くす。だから夕焼け色の中でも少女は白いままであった。


そしてほとんど他人と接したことがなかった枢にとって美しすぎる少女は最早毒でしかない。
一緒の空間にいるだけで息苦しく、心臓は痛く、手のひらは汗ばみ、包帯を巻く手はかたかたと震えていた。

彼に立たせてもらった少女は一瞬、掴まれた手、枢の汗ばんだ手に不快な表情をしたが、それはほんのほんの一瞬で、
すぐに愛らしい笑顔を取り繕い、なすがままに介抱される。
怪我した足の靴下を脱ぎ、冷たすぎる流水で傷口を清潔にされ、
懸命に包帯を巻く枢を見下ろす少女は醜悪に歪んだ笑顔をしていた。

その醜悪な笑顔を見ていれば、枢はあれほどにも少女に囚われなかったのだろうか。
いや、それはさしたる問題ではない。
きっと枢がこの世の重苦しく、鬱々とした何もかもを集めたような部屋から白い蝶を見つけた時にはもう、
もう、焦がれて焦がれて仕方が無かったのだ。

「ありがとう」

そう言った少女の横を風が通り抜け、あらわになるうなじ。
風を疎むように顔を背けた少女の耳の後ろ、小さなほくろ。べったりと鼻の奥にこびりついた血の匂い。
風が止む。枢に笑顔を向ける少女。生えかけの牙がこちらの様子をうかがっている。小さなほくろは髪に隠れてしまった。
血の匂いは鼻の奥の奥にまでもぐりこみ、いつしか本能と呼ばれる部位に到達する。

匂いはべっとりとまとわりつき、むごたらしく本能を喰い漁る。心は押し潰され、圧死してしまいそうなほど。

本能は悲鳴した。助けてと悲鳴した。もしかしたら実際に悲鳴をあげていたのは彼かもしれない。
彼は逃げるように屋敷へと走り去ってしまったから。
小さなほくろが羨ましく妬ましいと思いながら走り去って行ったのだから。

一番星が見え出した空の下、少女は呟く。

「変な子」

風が吹いた。髪が少女の顔に絡みつく。それを不機嫌にどかし、ポケットから手鏡を取り出すと、それを覗き込む。
目、鼻、唇、そして手鏡を少し離し、顔が全て映りこむようにする。
鏡は美しい少女を映していた。
少女が最も美しいと信じてやまない人物を映しだしていた。

しかし小さなほくろは映らない。
それは少女自身にも知るよしのない秘密であった。



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