□夢見鳥
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車を使わなかったので小一時間歩くはめになってしまったが、
それでも小一時間ですんだのはそれなりに屋敷に近い場所で夜会が催されていたおかげだろう。

彼は屋敷の裏口から老婆に気がつかれることなく室内に侵入すると、最奥の自室を目指した。
月明かりも届かない部屋は彼が最も安らげる空間であり、
そしてその部屋に行ってしまえば月光の追跡から逃げ切ることが出来る。

腕中の娘を見れば、廊下の窓から差し込む光によってますます青白く、
妖艶に病弱そうに眠っていた。永久の眠りについていた。
息を飲み込む。あまりの美しさに息をのみこんだ。
息が食道を通り胃に到達し、きゅうと胃をわし掴んだような気さえした。
過ぎた美貌は凶器であり、毒だ。
息をすいこめば、娘の周りの空気を吸い込めば、くらくらと眩暈がした。毒のようだ。甘美な毒だ。

枢は乱暴に自室の扉を開けると、やはり乱暴に閉め、
そしてずるずると扉にもたれかかった状態で腰を落とす。

暗くじめりとした部屋。この部屋に彼は初めて他人を迎え入れた。
死者になることでしか彼の部屋に招かれないというのなら御免こうむりたいが、
彼だって特別死者に心を許しているわけでも、ましてや死者だからといって招くつもりもない。
特別なのは娘である。その証拠に彼の陰鬱な部屋は白で溢れていた。


白い蝶、白い蝶、白い蝶、白蝶、白蝶、白蝶、白、白、白、白、白、白、白い蝶であふれていた。


虫ピンを羽に突き立てられ、ガラスケースの中、標本にされた白い蝶。
鳥篭の中、ぐるぐると蔦のような造りものの葉が押し込められ、そしてその葉で羽を休めるのは、やはり造りモノの白い蝶。
天井からハトなど形を模したものを糸で吊るし、風に揺らいでは、空中に浮かんでいるかのような錯覚を覚えさせてくれる玩具、
または装飾として使用されるであろうモビール。
そのモビールは紙で作られた白い蝶を糸で吊るし、ぷかぷかと蝶が羽ばたいているかのよう。

とにかく病的に白い蝶だらけであった。否、一つだけ蝶でないものが紛れている。
針金でなんとなくヒトの形を表わしたもの、棒人間という表現がしっくりとくる。
1本の棒のまわりをひたすら針金で巻いて巻いて巻きつくしたような棒人形。

針金人形はペンキか何かで白く塗られていたが、ところどころ剥げ、鈍い鉄色が光っていた。
そしてその人形、なんとも面妖なことに針金の細い足に似合わない大きな靴下を履かされている。それも片方だけ。

なるほど。彼は彼なりに膝を怪我した少女を表わしていたのだ。
包帯を不器用に巻き上げた少年は、どうやら工作が苦手なのか針金人形も随分とみすぼらしく、
目をこらしてよく見れば靴下は白く塗りつぶされた指サックであった。
えげつないことにその指サック、ところどころ針金がゴムを破って突き出ており、無機質な人形にも関わらずどこか痛々しい。

針金に突き破られた指サックもみすぼらしい針金人形も飾りつけられた白い蝶達も、
綺麗好きかただの神経質ゆえか、ほこりは全くかぶっていなかった。

清潔感あふれる白い部屋。それはまるで病室のようだ。
死を待つ老人が床に伏せ、咳き込む様を医者達も看護婦達も見て見ないふりをし、
廊下を駆け抜けて行く忘れ去られた病室のようだ。
老人の肌はいつしか血の気もないような白に染まり、誰に看取られるでもなく息を引き取る病室のようだ。
老人がいなくなり、空っぽになった病室は次の患者を待つ。
手をこまねき陰々鬱々といった具合に次の死する人を待つ。
狂気の部屋だ。窓もなく隔離され白に閉ざされた狂気そのものだ。
暗く暗くどんよりと人の目に触れないように一番最奥にこしらえられた狂気だ。


その気違いめいた部屋、彼は大事に愛でてきた白蝶、棒人形、
そのどれ一つにさえ注意を向けず、視線も向けず、心は娘の屍に向けられていた。
立派な彫刻のような、芸術品のような屍である。少なくとも、彼にはそう感じた。

枢が死して間も無い娘の顎と閉じることに成功したように、吸血鬼はどうやら死後硬直が早いらしい。
そもそも灰にならず死後硬直するというのがおかしな話であるわけだが。

枢はうっとりと娘を見つめた。唇を指でなぞってみた。弾力は失われ硬くなっていた。ひんやりと冷たかった。
間違いなく死んでいた。人知れず死んでいた。枢だけの秘密であった。

秘密は蝕む。どろどろと彼の思考を蝕む。
腐った桃を握り潰し、熟れすぎた果肉の香りが鼻腔をつき、
だらりと滴る果汁が手をべとべと汚すように、腐った桃を握り潰したようにどろどろと思考を蝕む。

娘の美を、娘を永遠に留めたいと願った。
娘の死を、屍を永久に縛りたいと願った。

この暗い暗い部屋に毒という鱗粉を撒き散らす白い蝶を縛り続けたいと願った。

娘の肌は硬かった。硬まっていた。
彼はもう少し冷静に考えるべきであったのだろうけど、蝕まれた思考では何も考えられなかった。
灰にならなかった娘は石像のように硬まり続け、
自分を魅了し続けてくれるだろうと何の根拠もなく信じきっていたのだから。


もう、小さなほくろを羨ましく思わなかった。
小さなほくろの存在は枢も知っていたわけだけど、娘の死、それはほくろも知らないだろう。
自分が寄生している肉体の主が死んだとは夢にも思っていないだろう。

枢は微笑んだ。この世に生を受けて初めて心から微笑んだような、そんな優しい微笑みであった。

「二人ぼっちだね?二人ぼっちだけれど、僕は君さえ知らない秘密を手に入れたよ。
 知らないだろうけど、君はもう……死人なんだ」

娘は生前と変わりなく美しく微笑んだまま、枢の接吻を受け入れる。
長く長く唇を合わせたように感じたが、実際にはほんの一瞬の間であった。
枢の唇は冷たかったが、娘はそれ以上に、氷のように冷たかった。

彼が唇を離すと、娘の青紫に変化していた唇はぬめりと光る。枢はひんやりと冷たい唇を舐めてみたのだ。
それは禁忌の行為である。ヒトはどうしてか禁じられた行為に酷く惹かれるものだ。
むしろ枢はとうに禁忌を犯すといった段階を飛び越え、ヒトとしての在り方を超越したところにいた。

彼は起き上がると、娘を抱きかかえベッドに横たわらせ、そしてその隣に自分も横になる。
彼は緊張していた。手汗もかいていた。でも逃げることはしなかった。
屍相手に逃げるのも愚か極まりないと思うが、彼は逃げ出したくなる気持ちをぐっと堪え、背後からやんわりと抱擁する。
心臓を痛めていたが、それも次第に癒えてゆき、
朝日が昇る少し前、空の闇が薄くなりだした頃に彼はゆるやかな眠りへと身を沈めていった。




◇◇◇





彼が目覚めたのは夕刻よりも前、正午を過ぎたばかりの空が明るい時間。
日光がほとんど差し込まない部屋だが、それでもお情け程度に陽射しは部屋にそそがれていた。
小さな窓から差し込む光はか弱いけれど、室内は薄暗いけれど、それでも彼の眼はしっかと異変をとらえた。
吸血鬼はもともと夜行性なので、案外暗がりの方がよく見えるのかもしれない。

それよりも異変。とても小さな異変。けれどそれは彼の心を大きく揺さぶる。
娘の腕に黒いような鼠色のような、丁度親指と人差し指でワッカを作ったような大きさの斑点がぽつぽつと浮かび上がっていた。
よくよく見てみるとそれは腕だけに留まらず、首や足にもあり、服を剥ぎ取ってみれば躯全体に広がっていた。

おそるおそるとその斑点を指で押し付けてみると、斑点にずぶりと飲み込まれ、
指先はざらざらとした感触を味わっている。
ためしに指でかき混ぜてみる。
皮膚をえぐり、内臓に到達しているのではないかと思えるくらい指は深く飲み込まれている。
それにも関わらず、ぐにゃりともぬめりともしない。皮膚の下にあるべきものの感覚がない。
ひたすら ざらざら、さらさらとしていた。

枢は力無い声をあげた。悲嘆のうめき声だ。

指をぬき、まじまじとそれを眺める。
指は灰をまとっていた。
絞殺したのがまずかったのか、娘は瞬時に灰にはならず、娘の体はゆっくりゆっくりと土に帰ろうとしていた。

斑点は蟲にさえ見えた。娘の肌にとり憑く蟲に見えた。


蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、、、、、


彼の白い脳髄のひだを、無数の群蟲がうじゃうじゃ這い回った。

枢は混乱した。白い蝶と蝶の秘密を手に入れたつもりであった。
そしてそのどちらとも彼から去ろうとしている。

空は明るい。しかしそんなことに構っている場合ではない、と急いで着替えをすませ玄関ホールへと廊下を駆け抜ける。
途中、老婆に出会った。老婆は慌てる枢に何事かと視線で訴えたが、彼はその質問に答える余裕もなく、
外の世界に通じる扉を開き、眩しい日光に目を細め街へと走って行った。




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