□夢見鳥
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枢はありとあらゆる店を駆け巡った。
内気な彼をこうまでにも行動的にしたのはあの屍である。
屍を保存するために店から店へと移る姿は、ある意味花から花へと移る蝶に似ていた。
彼の探し求めていたものは花の蜜ではなく、蜜蝋である。
そして何軒目かの店に辿りついた時、ようやく目当ての蜜蝋をみつけ、彼は店にあった在庫分を全て買い占めた。

「は、やく…かえら、なくちゃ…」

必死だ。必死であった。一刻も早く帰らなければ娘はもっと灰に犯されてしまうかもしれないのだから。

通りにタクシーが止まっていた。
最初から車を使えばよかったと後悔をしつつ、それに乗り込み急いでくれと運転手に伝える。

幸いなことに渋滞などはなく、車はびゅんびゅんと走っていく。
せわしなくきょろきょろと周りの景色を見、早く屋敷につかないものかと内心焦る枢は前方の看板に目を奪われた。
藤の花を持った可憐な日本人形をモチーフにした広告看板であった。
一刻も早く帰らなければならなかったが、彼はあることを思いつき、運転手に画材屋に行くよう告げた。

「少しの間で戻るから」

道路の脇に車をつけさせた枢は急いで画材屋店内へと向かい、
あっという間に店から出てきたと思ったら、紙袋を手に持っていた。
彼が走るものだから、その紙袋の中身は袋とこすれガサガサ音をたてる。

そうして再びタクシーに乗り込んだ枢は今度こそ本当に屋敷へ、あの白で溢れた部屋へ帰ることが出来た。




◇◇◇




枢は老婆と出会うことなく自室の前へと辿りつけた。早くドアノブを回して屍に、娘に会わなければならない。
そう気持ちでは思えど、もし娘が灰に、無に帰していたらどうすればいいのかと、
ドアノブを握る手の平にじっとりと汗をかいた枢は躊躇していた。

それは恐怖であった。その証拠に手汗は娘を前にした時のそれとは違い、ひんやりとして気持ちが悪く、
心臓はふたふたとして今にも口からこみあげてきそうである。

だけど扉の前につっ立ているだけでは仕方あるまいと意を決し、
ぬめった手でドアノブが滑らないよう、しっかと掴みそれを開いた。


意外にも目に飛び込んできた娘の姿はまだまだ形をとどめており、
気持ち斑点が増えてしまっていたが、それでも彼はひとまず安心する。

「………」

名前を呼びかけようと思い、彼の唇は一度、二度と小さく開閉した。
しかし名前は出てこない。名前の変わりに息がこぼれる。彼は気がついた。娘の名前を知らなかったのだ。
確かに、一度きりしか会ったことがないのだし、思わぬ形で再会を果たせたわけだが、彼は娘に名前を尋ねていなかった。

そして娘の名を知ることもなく娘は屍になった。
枢は少しだけ後悔したが、名前など記号に過ぎない、名前など他者を判別するための言葉遊びでしかない、
そう思いなおし、早速購入してきた蜜蝋を取り出すと、それを融かしたものを斑点にかけてやった。

ぼとぼとと蜜のように蝋がたれる。
灰はじわりと蜜を吸収し、吸収しきれなくなれば穴に蓋をするかのように灰の斑点穴を塞ぐ。
蜜蝋は肌の上をなめらかに飾り、てろてろとした光を放っている。

そうやって蜜蝋で斑点を塞いでは次の斑点に蝋をたらし、長いこと時間をかけ丁寧に蓋をしていった。
不器用だけど神経質な彼は何事にも丁寧に打ち込む。
棒人形だって歪ではあったが、丁寧に丁寧に針金を巻きつけたのだ。
そしてその丁寧さとは裏腹に、蜜蝋はまだ灰に侵食されていないところにもふりかかってしまったが、
彼はとにかく自分なりに丁寧に躯を補修し、全身の灰を塞ぐころにはカラスも巣で寝静まる夜半時であった。

ぐったりとくたびれた様子の枢が屍を見いやれば、随分時間をかけ補修したせいで、まだ乾いてない部分もあったが、
最初に蝋をたらした部分などはもう乾燥して娘の皮膚の一部になっていた。

疲れもあったが、吸血鬼にしては早起きをしたせいもあり、知らず知らずの内に目がしばたいている。
しかし眠っている暇さえ惜しいと、紙袋を逆さにし上下に振れば、
日本人形の肌を真っ白に塗り上げる胡粉という顔料、筆、乳鉢、そして赤い絵の具が落ちてきた。

胡粉を乳鉢でねり、絵皿でとくと、それを筆にしみこませ蜜蝋の上を白く塗りつぶす。
蝋をたらすだけで手は疲労していたが、体を休めているわけにもいかないので、ひたすら塗りつぶした。
娘を、白い蝶を灰などに奪われてはたまらないのだ。

そうこうしている内に彼はある一つのことに気がつく。
娘は屍になり、元来より白かった肌をさらに白くしていたが、さすがに胡粉の白さには負けるらしく、
塗りつぶしたところが水玉模様のように肌に浮かび上がっていた。

これはいけないと少しばかり思案する枢の視界に、念のため購入してあったはけが入りこんでくる。

「ああ……これだ…」

それを手に持ち、胡粉をたっぷり吸わせ屍の肌に滑らす。
はけはぐんぐんと胡粉を伸ばし、見る見る内に寝そべった屍の全身を白が覆っていく。

それを羨ましそうに針金人形が見つめている。人形は所々剥げてしまっているのだ。だから羨望の眼を屍に向けていた。
しかし羨望の眼を向けているのは何も人形だけではない。
今、部屋の全ての白蝶は熱い視線を屍に向けていた。
自分達は所詮代用品で、あの屍こそ彼が欲してやまなかった白い蝶であると思い知ったのだろうか。

皆は一斉に枢の後ろ姿へと視線を向ける。
彼は気がつかない。視線で刺す。枢は気がつかない。視線で刺し殺す。
まるで気がつかない枢はあらかた胡粉を塗り終えると、娘を抱き起こした。
白い屍に自身が熱を持って頭を持ち上げるのを感じた。
屍は魔性である。白い魔性である。ごくりと息を飲み込む。胸が苦しくて上手く飲み込めない。

枢の手は震えた。すぐに震える性質なわけではない。何もかもこの魔性のなせるわざだ。
震えた手で赤い絵の具をとき、筆に染みらす。震えた手で筆を屍の唇に近づける。
きゅっと唇を噛み締め震えを抑え込むと、しっかりとした手つきで屍の唇に紅をのせた。
装飾されたハマグリの両面に紅を塗りこんだ京紅のような朱色だ。

けだるげな花魁が濡れた小指で花唇に紅をおくように、
紅をさすのは最後だとこだわる人形師が仕上げに紅を描き、人形に命を吹き込むように、
唇に血を一滴ずつスポイトでたらし、ぐいっと親指で伸ばしたように、とにかく真っ白な肌に紅は鮮明に映えた。

散々不器用呼ばわりしたが、どうやら本人も知らない化粧の心得があったのか、娘の唇は見事に赤く染まっていた。

頬も耳たぶも膝も肘も全て白くていい。
桃色に飾り付ける必要などない。
蝶はそれだけで美しい。唇を紅で飾る程度が美しい。それだけで蝶は美しい。
余計なものは何もいらない。白があればいい。
傷つき血が滲む膝のように、唇に紅がのっているだけでいい。

そう思う枢は上手く飲み込めない息を何とか喉の奥へ運ぶ。
娘は白そのもので、乳房の先端さえ白く、枢が邪魔だと髪を剃ってしまった頭部まで白かった。

枢の背中を視線が射抜く。用無しになった白の代用品達が視線で射抜く。
哀愁を帯びた眼で枢を見つめる。枢は気がつかない。苦悶する、悲鳴する、絶叫する、私を見てと嘆く。
まるで気がつかない枢を、陶器のように滑らかで、それでいて濁り、やけに瞳孔の開いた屍の眼球が見上げていた。




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