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□くちづけ
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ぱん、という乾いた音と共に、てのひらに振動と痛みが伝わってきた。あーあ、やっちゃったんだなぁなんて他人事みたいに考えながら、きれいな左頬ををきれいなまま赤く腫らしている彼をみた。
「…ごめん」
あやまるつもりなんてなかったのに、震える声で謝罪の言葉が口をついて出た。ちがう、私が言いたいのはこんな言葉じゃない、私が出したいのはこんな声じゃない。
彼は左頬を押さえて、ゆるく横に首を振った。最後の言葉を口に出せずにいるのか、戸惑っているようにもみえた。

きっとどうしようもない行き違いだったのだ。私の事を愛していると言ってくれた彼の目に曇りはなかった。それなのに彼の心は今はここにはない、なんて。

意を決したみたいに彼が息を吸い込んで、口を開いた。紡がれる言葉は淡々としていて、かえって胸が痛い。

「ねぇ、」
雨が降り出した。冬のそれらしくはない、大粒の、ぬるい雨だった。
もういっそ、あなたといられた思い出とか感情とかそういうもの全部、雨に流してしまえればいいのにね。
こんな事を言ったら、彼はどんな顔をするのだろうか。
言えない私はきっと彼に未練たらたらで、そしてとても格好悪い。
「精市、」
格好悪いから、彼の最後の優しさに縋ってしまうのだろう。
「最後にさ、キスしてよ」
彼の唇が、触れた。雨に打たれたせいかいつもより少しつめたくて、そして彼の優しさは痛かった。



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