桜の夢は散りやまぬのに
□青信号
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スクランブル交差点、というものをご存知だろうか。
一つの交差点に斜めだったりまっすぐだったりの横断歩道が六カ所程度存在する交差点である。もちろん、全てに信号機がついていて、場所によっては音のなる所もある。
パッポー、パパポー。パッポー、パパポー。
どういう風な聞こえ方をしているのかは、人それぞれだろう。とりあえず、私の頭の中はこう整理しているので、こう聞こえている。鳩のようだ、というか多分、鳩をモチーフにして作ったのだろう。
パッポー、パパポー。パッポー、パパポー。
と、こんな高性な機能を持っている私の目の前にあるスクランブル交差点も、信号機だけは錆びて古いものだった。
青と赤はどちらもやる気がないように、鈍い光を放っている。光の前に映っている、私たちをリードしてくれるはずの青の方のおじさん(もしかしたら女性かもしれないし、もっと若いかもしれないが、なんとなく私はおじさんのような気がする)は、近所の高校生か、はたまた酔っぱらいの中年親父かがいたずらで割ったのだろう、右足がなかった。
右足のないおじさんに「さあ、歩け」と示されても、足取りは重くなる一方だろう。
しかし、私の斜め方向に見える信号機のおじさんは言った。
「さあ、歩け」
私はこのおじさんに眉をひそめるでもなく、一言呟いた。
「何故ですか」
さて、この時点で不思議だ、おかしいと思わなければならないことがいくつかあるだろう。
まず、何故私は青信号の右足のないおじさんと喋っているのか。何故、私の足は一歩も動かないのか。何故、私の周りに居たたくさんの人々はこつぜんと姿を消してしまったのか。
しかし、私の思考回路はそれを当たり前のように感じていた。地球が太陽の周りを回っているように。一日が二十四時間なように。
「おかしな質問をする子だ! それは今信号が青だからだ!」
この世で一番おかしいことを発見したかのように、おじさんはお腹を抱えて笑った。右足のせいで、簡単には仰向けに倒れられなかったが。
僕、といっていると言う事は、おじさんはやはり男なのだろうか。とりあえず今の所は、男と思っておいていいのだろう。
そんな事を思っている内に、おじさんは「あー、笑った」と目尻にうっすら浮かんだ涙を抑えながら立ち上がった。(否、彼の目は判別ができないので、そこが目尻だと断定はできないのだが。)
「さあ、歩きなさい」
「人に強制されたくありません」
「じゃあ、次の青になるまで君は渡れないがいいのかね?」
「でも、次の青になったらまた強制されるでしょう?」
「無論だ。いやしかし、信号無視はいかんぞ。あれをされては僕がいる意味がなくなってしまうからな」
いる意味が無くなるという程、この世で寂しいことはない。おじさんはそう付け足して、はあ、とため息を吐いた。
別に無視をしたいとか、そんなんじゃありません。私は言った。
「ただ、強制されたくないだけです」
「では、君は強制される青のとき以外に、どうやってこの信号を渡りきるというのだ?」
ぐ、言葉が詰まったが、咄嗟に頭に思い浮かべたことをそのまま口にした。
「空を飛んでいきます」
「君にできるのかね?」
うぐ。
「人間というのは大地を踏みしめないと歩けないのだ。しっかりと、一歩ずつ着実と歩くというのはいいものだぞ? 僕なんて、歩け歩けと促すだけで大地を踏みしめたこともないのだ」
踏みしめられぬまま、右足も失ってしまったしな。おじさんはがっくりと肩を落とした。
私は自分の両足を見つめた。制服のままだから、黒のハイソックスを纏ってローファーを履いている。
私はどんなに嫌だと思っても、歩ける立派な足を持っている。そう考えていただけで、喉の奥が熱くなって、鼻がツンとした。
「強制されている、じゃなくて、自分がやっていると考えるといい。僕は歩けと促すが、君は歩かされているのではなく自分で歩いている、とね」
おじさんは喋らなくなった。というより、動かなくなった。ガヤガヤと、人の声がし始めて、風が吹き始めた。
パッポー、パパポー。パッポー、パパポー。
おじさんが光った。一歩、足を踏み出した。私は頬に熱いものを伝わせながら、それでも前を見続けた。
私は、青信号を、歩いている。
END