あはれなるもの

□梅枝
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「こんにちは。」
 
 顔を上げれば、馴染みの女性客の姿。
 
「こんにちは。」
 
 微笑(ワラ)って、此方も挨拶を返す。
 
「『中華鍋』お願い出来ますか。」
 
 その言葉に首を傾げた。
 
「先週、お買い求めになられたばかりですよね。」
 
 すると彼女は苦笑いを零した。
 
「この間のは、一寸酷使したら、壊れてしまいまして。」
 
 深くは突っ込むまい。
 
「わかりました。」
 
 答えれば、彼女はカウンターに身を乗り出した。
 
「オプションで、使用時に静かめ、とかになりませんかね。」
 
 声を潜めて尋ねる彼女。
 
「ならないことも、ないですよ。」
 
 首を傾けたら、髪が流れた。
 
「それじゃ、お願いします。」
 
 にっこりと彼女は笑って言った。
 
「わかりました。」
 
 そして、一時奥に引っ込んだ。
 
 彼女は馴染みの客だが、名前も素性も知らない。
 外見は、何処にでもいるような普通の女性。
 しかし、度々『中華鍋』を買い求めに来ている。
 理由は勿論、わからない。
 
 彼女向きな小さめの『中華鍋』を包む。
 彼女の要望通り『使用時に静かめ』になるようなオプションも一緒に。
 
(出来ることなら、彼女にコレを売りたくはない。)
 
 そんなことを思うようになったのは、何時の頃からだっただろうか。
 
「お待たせしました。」
 
 カウンターに戻れば、店内を眺めていた彼女が此方を向いた。
 
「どうぞ。」
 
 心の中の葛藤を押し隠しつつ、『中華鍋』を差し出せば、彼女はあっさりと受け取った。
 
「確かに。」
 
 そして、鞄から茶封筒を取り出した。
 
「代金です。」
 
 中を確認して、頷く。
 
「毎度有難うございます。」
 
 眼を伏せた。
 
(どうして、彼女はこんなものを必要とするのだろうか。)
 
「あの。」
 
 呼び掛けに、視線を彼女に戻す。
 
「なんですか。」
 
 問えば、彼女は深呼吸を一度した。
 
「この後、お時間ありませんか。」
 
 彼女の言葉に、瞬きをした。
 
「一緒にお茶でも、如何でしょう。」
 
 真剣な瞳で誘われ、思わず言葉に詰まった。
 
「…やっぱり、お忙しいですか。」
 
 残念そうに言う彼女に、慌てて口を開いた。
 
「すぐに用意しますので、少し待っててもらえますか。」
 
 すると彼女の表情が一気に明るくなる。
 
「はい、待ってます。」
 
 そんなに彼女に微笑んで、再度奥に引っ込んだ。

 
『名前も知らないけれど。』

 
(今日はサングラスじゃなくても良いだろうか。)
 


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