完結済小説
□序章
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第一部 記憶喪失
オレは眠っていた。
夢を見ていたのかどうかは定かではない。どこか暗いところをぼんやりと漂っている感覚がある。まるっきり何もない世界だった。上も、下も、右も左もない。真っ暗で、果たしてどこまでが自分に属し、どこからが自分でないものに属しているのか、それすらもわからないほど深い暗闇。
そこには時間すらも存在しない。他者の介入はまったくない。介入、という感覚があるということは、オレはこの暗闇を自分に属するものと認識しているのかもしれない。しかし、それすらも定かではない。
その時不意に、暗闇が揺れた。
白いもやが集まり、やがて誰かの顔らしき形を形成した。その顔にオレは恐怖を覚えた。なぜかは判らない。しかしそれは紛れもなく恐怖の感覚だった。
顔は笑った。正常な知覚を持ってすれば美しいとすらいえるほど整った顔立ちをした男だった。年齢は20代後半くらいに見える。冷たい表情で笑う男は、たぶんオレがよく知っているはずの、オレの記憶に深く刻まれているはずの男だった。
オレは自分の記憶をたどって、この恐怖の原因を突き止めようとした。絶対によく知っているはずの顔。恐怖、嫌悪、侮蔑、懐古…。オレはこの顔の呪縛から逃れるために生きていたはずだ。逃れるために、この顔の男に挑んでいたはずだ。しかしそれは記憶ではなく、あくまでオレの中に残る感覚に過ぎなかった。オレの中に記憶はなかった。この男が誰であり、自分とどういう関わりがあり、何を持って自分に恐怖を植え付けたのか、その記憶がまったくないのだ。オレは更に記憶をたどった。彼は、いったい誰だ。
その時、その顔が言った。
「お前こそ誰だ」
オレは…。
言いかけて、オレは更に恐怖に縛られた。オレは、オレは、オレは…。
オレはいったい誰だ。