完結済小説

□序章
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 オレの名前は…判らない。

 なぜ、判らない…?

 その時、顔が不快な笑い声を立てた。

「どうして判らねんだよ。オレはお前じゃねえか」

笑い声を間にはさみながら、男は言った。そのいやったらしい声がオレの神経を逆撫でした。そんな馬鹿なことがあるはずがない。こんなにオレに嫌悪感と恐怖感をもたらす存在が、オレ自身であるはずがない。

「数学の授業を覚えてるか? A=C、B=Cであるとき、A=Bが成立する。オレが誰なのか、お前は判らねえ。「オレ」を「A」、「判らねえ」を「C」とすると、それはA=Cだ。お前は自分が誰なのかも判らねえ。「お前」が「B」ならこれがB=Cだ。つまり、この法則で言えばA=B、つまり「オレ=お前」も成り立つって訳さ。判っただろ?」

 男はまるで冗談でも口にした後のように大きな声で爆笑した。オレはこの男にからかわれているのだと思った。しかし笑い事ではなかった。本当にオレは自分のことが判らないのだ。

 この男の言うことを証明できる根拠が、オレにはないのだ。

「認めちまえよ。その方が楽だろ? お前はいつも楽な方にばっか流れていく奴だったじゃねえか」

 この男の言葉をまにうけてはいけない。もしも男の言うとおり、男とオレが同じものだったとしても、この男はオレの悪意や誘惑といった闇の心の方だ。オレが卑怯であるはずがなかった。少なくともオレは卑怯なことはするまいと思って生きてきたはずだった。

 オレは初めて、男に話しかけた。それは声を出したというより、自分の意思を伝えようと思念を送ったという方に近かった。

「オレは楽な方に逃げたりしねえ。お前とオレは違うはずだ」

 男はもうおかしくてたまらないというように、耳障りな声で笑いつづけた。

「ハハハ…バーカ。てめえ頭おかしいよ。そこまで言うなら証明してみりゃいいじゃねえか。お前がオレと違うって、ちゃんと証明しろよ。お前が判らねえBじゃねえってこと、オレに証明してくれたら信じてやるよ」

 男は笑い声をとどろかせながらしだいに遠ざかっていた。現れたときと同じように白いもやになって暗闇に消えていった。男が消えてもオレは自分が誰なのか判らないままだった。オレの記憶の中にはその断片すら存在しなかったのだ。

 その時、暗闇がいきなりスパークした。



→人物紹介(ネタバレ含)
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