610短編

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人の死など何度だって見てきた。

それを踏み越え、歩み、ここまできたのだ。

だから。

…それなのに。



その肌に、触れられない。
恐怖が胸を満たす。
閉じた瞼と結ばれた唇。
眠っているようだ、とよく言う。確かに何も知らなければそう感じたのだろう。しかし俺は知っている。彼がもう――。
触れてしまえば最後、何かが決壊してしまう。
或いは既に。

大切な者の死。
途方もない悲しみが、大波のように俺を背後から呑み込んだ。
頭には靄が掛かり、思考を曖昧にぼかしていく。
それでもただ悲しい。悲しい。悲しい。
目からはぼろぼろと涙がこぼれる。
それに構う余裕も無く、ただひたすらに、悲しみに打ち拉がれる。
今の自分にはそれしか無い。
感情は悲しみに埋め尽くされ、感覚は喪失感が支配している。
冷えて固まった世界の中、俺は彼の死体の前で泣きじゃくっていた。





『タイミングが悪かったね』
そう言ってコレットは、それきり口を噤んだ。
電話越しの沈黙。
俺はただぽかんと口を開けて呆けていた。
ゼロスが病で入院していたことは知っている。
暇を見つけて、何度か見舞いにも行った。
弱々しく咳き込む彼を見る度に辛かったが、それ以上悪くなる気配も無かったこと、俺が更に忙しくなっていったことが原因で、見舞いに行くことはパッタリと無くなった。
…元々、出来る限り会いに行くなと言われていたし。
会いたいと思いつつ、それが出来ないことが続き、そして。
俺の元に入った最初の電話は、ゼロスの死を告げるものだった。
ゼロスの危篤はみんな知らされていたらしい。ただ、俺にだけは連絡が来なかった。間が悪かったね、とコレットは言ったが、そんな言葉で許されるのだろうか。
連絡を俺が受け取れなかったのなら、わかる。でもそうじゃない。そもそも俺には知る術が最初から存在しなかった。
『しいなにも悪気は無いよ。ただ、里のことでバタバタしてたから…』
「すっかり失念してたってか…?人の命の問題を?」
『……それくらい、いっぱいいっぱいだったの。しいなを責めちゃ駄目だよ、ロイド』
みんなきっと、慣れてしまったのだ。
ゼロスが、あまりにも長い期間、入院していたから。慣れて、当たり前になって、日常に溶けて、目先のものに隠れていった。
掛け替えのない、仲間の命なのに。
『…確かにロイドが一番ゼロスと仲良かったのにって、思うよ。しいなも充分責任感じてる。私たちも、ロイドが来ないことに疑問を感じられれば良かったのにね』
「もう、今更…意味無いだろ」
『…………お葬式は、やらないんだって。神子だから、あまりそういうのすると…問題が起きたりするらしくて…』
「……」
『火葬も凄く簡単に済ませちゃうみたい。だから、ロイド。最後のお別れ…来る?』
「お別れ…」
『燃やす前に。ゼロスに会う?』
「…」
恐ろしい。真っ先にそう感じた。
死んだゼロスを見る。死体になったゼロスに会う。それはなんて、拷問。
それでも俺は頷いてしまう。
こうして俺は、深夜の黒い空の下へ飛び出した。





イセリアで、寿命のじいさんが死んだ時、死体を燃やすと聞いて俺は喚きそうになった。
目の前にいる、じいさんの妻だったばあさんに、「それでいいのか」と聞きたくて。
自分の愛する人が燃やされて、跡形も無くなって、骨だけになる。
今まで自分が見てきたものも触れてきたものも、皮膚で肉で、決して骨なんかじゃない。なら普通、そっちを残したいじゃないか。
土葬も嫌だ。というか腐るのが嫌だ。心臓が止まっただけで、当たり前のように保たれていたものが崩れていくなんて。
死は怖い。死後の世界とか魂とかそういうことじゃなくて。肉体的なものが、怖い。
今目の前にそんな悪夢が横たわっていた。
大きな氷や保冷剤が大量に敷き詰められた桶の中、凍えるような冷気に包まれたゼロスがいる。
寒いだろう、苦しいだろう、ああ。
触れずにさえいればこんなにも。こんなにも。信じなくて済むのだから。
いっそ、いっそ。すべて。このまま。
「だめだよロイド」
背後からの声にゆっくり振り返る。
悲しげな目をした、コレットがいた。
最初からいたのだが、何も声を掛けてこないからいないものとして扱っていたのに。
「ロイド、お願いだから。そんな顔しないで」
「……」
「悔しいのはわかるけど…もうやめて。誰も悪くないから。誰も…。ただ、」
「ま、が、わるかった」
「そう、そうなの…だからやめて」
俺は今どんな顔をしていたというのだろう。
コレットはそれきりまた黙り込んだ。





駆け回る。
ゼロスと二人、眩い光の中を走っている。
息は上がっているのに苦しくない。
ゼロスはずっとずっと幼かった。伸ばした俺の手も小さかった。
楽しそうに笑う。笑う。笑う。
幸せだ。ああ、今。
緑の匂いに満ちた空色の世界は嘗て夢見た果ての幻想。
ぐるぐる回る。飛び跳ねる。羽が生えたみたいに、軽い、軽い!
空気を切って空を飛ぶ。目が開けられない。でも見える、足元に広がる壮大な光景。
ふと気付いた時にはゼロスがいない。
探す、探す、どこにいる。空はあまりにも眩しくて、広すぎて。
ゼロス。頼む。置いていかないで!



最悪の目覚めだ、最初に思ったのはそれだった。
朝の日差しはどこにもない。窓からは西色の橙が入ってきて、乱反射している。
もう一度寝ようかどうしようか。頭がぐるぐるしている。これは少し、やばいかもしれない。
セピアな室内とは反対に俺の中身は空っぽで、無色透明、強いていうなら白とか空色とかそういうものだった。
明るいようなくすんだような、言い表しがたい色。

なんとなく。これが真理だと思った。

ゼロスの骨は見なかった。墓も見なかった。知らない女の子が俺を訪ねて、「どうして来ないのですか」と言った。

「そこにゼロスはいない。
俺の好きだったゼロスはさ、皮膚であり肉であり脳みそなんだ。
確かに骨でもあったけど、今そこにはもうゼロスは無いだろう。
そんな、モノでしかないものを祀って崇めて祈ってさ、何になるんだ。
なあ、教えてくれよ。
お前らどうして墓になんていけるんだ。
あれこそもうゼロスがいないことの最大の証明じゃないか。
許さない、俺は許さないからな。
ゼロスを燃やしたお前らも、危篤を教えなかったお前らも、そもそもみんなは見舞いに行ってたくせになんで俺だけ、俺が一番だって知ってたんだろ、もう許せない。世界が憎い。
でもそれだって、すぐにスッと抜けていくんだ。
何も残らない。そうだ。結局何も残らないんだよ。
なあ。なんで、ゼロスは、だってゼロスはさ。延命すりゃ良かったんだ。
苦しくても辛くても、植物人間になったって、生きてればさ、残ったんだ。
大事だったものが、血が通って、代謝で新しくなって、腐らないから冷やさなくて済むのに、あんな冷たい箱に入って燃やされて、馬鹿みたいだ、馬鹿、ああ、気持ち悪いんだろう?俺が。こんなこと言う俺がさ。
わかんねえんだろ。
大事な人が死ぬ気持ちも燃やされる気持ちも。実は俺もわかんねえ。
だってなんか、靄がさ。隠すんだよ。
当たり前か。俺死体に触ってねえし。燃やすとこも見てねえし。
本当は全部悪い冗談かもしれない。そうだったら、ああ、幸せだなあ。
いつか終わるとしても、
何も残らないとしても、
それでもいいんだ、置いていかれるよりはさ。
置いていかれたらもう死ねないんだよ。
後追い自殺なんて不可能なんだって、だってこれは拒絶なんだ、本人にそんなつもりがあろうと無かろうと、俺は置いていかれて、もう。
連れて行ってくれたらよかった。でも俺は今生きている。だから死ねない、行けない、それが苦しい。
死にたいのに死ねない、縛られて、行き道が無くて、どうしようもない。悔しい。
くそ。ちくしょう。ああ、俺は――」
そこで言葉が切れる。
目の前の女の子は微笑んでいた。
心の底から安心したように。
そして紡がれる声。
「よかった」
そういえば俺は、どうしてこの子を知らないんだろう。
「ロイドさん、もうとっくに立ち直って、踏み越えて、歩き出していたんですね」
その言葉が何を意味していたのか、俺は知らない。
だからただ「ありがとう」とだけ。
そうだ。一番は俺じゃなかった。他でもない彼女が、一番ゼロスを想っていて、ゼロスに一番想われていた。
羨ましいなあ。ああ、まったく。


 
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