緋色に導かれて(再筆)

□揺れる想い
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──紀尾井坂。

この坂の名は旧幕の頃、付近に紀州家、尾州家、井伊家といった大大名の屋敷が塀を連ねていた事に由来し、今も昔も東京の一等地である。


明治政府の頂点に立つ男、内務卿大久保利通は、この日明治十一年五月十四日の朝もこの坂道を馬車で通っていた。
待ち受ける自分の運命を知る由もなく……




(今日の会議は長引くな。内務省の仕事も滞っているし…緋村の所へ行くのは日が暮れてからになるか…

果たして緋村は動いてくれるだろうか。いや…なんとしても動いてもらわなければ。)


「緋村が動かねばこの国は滅びる。」






「この国の行く末なんて今から死ぬ人には無用な心配ですよ。」


「な…!」



にこりと微笑みかけた少年。
こちらの反応を認めるや否や、口を塞がれ、抑え付けられた。



「志々雄さんからの伝言です。」

(志々雄…!)



「緋村抜刀斎を刺客に差し向けようとはなかなか考えたものだが、所詮は無駄な悪あがき。

この国は俺がいただく──だそうです。」







──宗次郎は立ち去るまで数秒間立ち止まった。
物言わぬ身となった故人に向けたわけでも、誰に向けたわけでもなかったが静かに…



「蛍さん、言えなかったみたいですけど。

申し訳ないと…そう言ってましたよね。」




そう囁きながら微笑みを浮かべていた。
瞬時にその視線は冷ややかさを纏う。宗次郎はその場を後にした。










「号外!号外!内務卿暗殺!大久保卿暗殺!!」




人通りの少ない橋の上。蛍は眼下の喧騒を一人眺めていた──



「ただいまぁ。」


明るく響いた声。主は確かめるまでもない。



「…きっかり予定通りね。何も狂いはなかった?」

「ええ。」

「そう。さすがね。」



微笑む宗次郎は彼女の隣に並び、その風景に同じく視線を辿らせ始める。

そよ風に包まれながら幾何か。何もない時間がただ流れる。宗次郎も蛍も無言のままだった。
──蛍は無表情のまま、そのはずだった。笑顔で現れた宗次郎を見た刹那、胸に感じた心の歪みにも素知らぬ顔をして…



何ともなしに彼女を見た宗次郎は目を丸くさせた。




「あれ?蛍さん…」

「…何?」



「…泣いて…いるんですか…?」


「え?」




──少し驚き、僅かに強張った宗次郎の顔。
それがやがて解れるように彼は穏やかに微笑んだ。


「…ちょっと…失礼しますね。」

「ええ…」


そっと、手を伸ばされる。目尻に優しく触れる指先。
つ…と頰を伝う雫に、自分は本当に泣いてるのだと蛍は戸惑いの気持ちに苛まれる。
一筋、二筋と流れ落ちた雫を優しく払いのける宗次郎の指先。



「…何かあったんですか?」

「…何も。」

「何もないのに涙なんて…変ですよ?」

「なんでも、ないから。」

「どこか…お腹とか痛いんじゃないですか?」

「………」

「…いえ、真剣に言ってますよ?」



馬鹿にされていると思ったのだろう、宗次郎は蛍の瞳を覗き込んだ。
涙に濡れた双眼に宗次郎の姿が映り込む。


──こんなことに無駄に囚われるくせに。



「宗次郎、あなたは…ずっとそうだったの…?」

「……?」

「ずっと…そう生きてきたのね…?」




無邪気に疑問の笑みを向ける宗次郎。

──自分自身の想いも感情も蔑ろにして、ただただ流れるがままに人殺しに手を染め、そして一切傷なんて付かないという様に微笑んでいる。そんなことが幾千と積み重ねられ、宗次郎は今に至り生きている。


蛍はそう悟ると同時に──耐え難い悲しみの気持ちに包まれ…無意識のうちに涙を流していたのだった。




「蛍さん…?」

「……ごめん、やっぱりなんでもない。」



不思議そうに見つめてくる宗次郎を前に蛍は涙をしまい込んだ。


それがどうしたことか、と自分の中の一部が問い掛けてくる。

こうした修羅場に生きる以上、自分も彼も…駒の一つでしかない。非情になり切れなければ隙を生みかねない。だから当たり前の定めなのだ。…そう、定めなのだけれど。




(でも私は…彼には。)



「…蛍さん。」



何を思ったのか、宗次郎は蛍の手を握り締めた。ふいな出来事に目を見開く蛍。



「…どうしたの?」


「…そんな不安げな顔しないでください。蛍さんには似合わないですよ…」

「!」


「それに…」

「…?」


「…なんだか僕まで。」




蛍ははっとする。俯いた宗次郎の顔は…笑顔なのだけれどほんのりと悲しみの色を浮かべていた。


「あれ、僕何言ってるんだろう…えっと…その……」

「…」

「こういうとき、どうすればいいのかなぁ…?」





色々と考え出す彼の様子が微笑ましくて…何よりそれだけ自分のことで悩ませてしまうことが少し気恥ずかしくて。思わずくすくす、と蛍は楽しげに声を溢した。



「馬鹿ね…そんなに心配しなさんな。」

「えっ?」

「…そう、ちょっとお腹が痛かっただけ。でも、もう治ったから大丈夫。」

「…本当に?」

「ええ。…心配かけてすまないわね。」





「励まそうとしてくれて…ありがとう。」




困ったように、でも確かに柔らかな微笑みを浮かべた蛍。宗次郎は目を丸くして蛍を見つめる。そして…宗次郎はにっこり笑った。




「蛍さん、僕…今とっても嬉しいです。」

「どうして?」


「だって、蛍さんの笑顔が初めて見れたんですから。」


「……そうね。そうでしょうね。」




握られた手から伝わる温もりが心地良くて。
明るく笑う彼はどこにでもいる普通の青年のようだった。




──本当は…そうだったのだわ。けれどおそらく時代や環境が彼を変えてしまった。

でも…本当の彼自身は、彼の心は必ずどこかに存在している。そんな気がしてならなかった。




 

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