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□ハニートラップ
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ハニートラップ



さて、どうしたものか。
木戸浩志は思案する。目の前で、半紙から目を離せない程に自分の世界に没頭してしまっているこの男を篭絡する、その方法を。悲劇的なまでにストイックなこの書道家を、罠に嵌めてやる手段を。


浩志がこの男、半田清舟の家に泊まることが決定してから数時間。その間夕食を摂り一旦帰宅し風呂に入り、どうやってこの男の理性を粉々に破壊してやろうかと思考を巡らせつつ、再びこの家に戻り戸を開けた。目を離したのはほんの、数十分のことだ。けれど浩志がこの家に戻った時には、既に半田は今現在のようにひたすら半紙に向かっていた。

「……せ、先生?」

呼べども、返事はない。何事か声を発することはあれど、半田は視線を動かすことすらしなかった。どうやら、すっかり書に集中してしまっているようだった。考え事をするように、或いは思いを振り切るように。何かに感性を掻き立てられ筆をとった様子なら浩志も呆れはしないし、むしろその姿勢に感心すらするだろう。けれど淀んだ空気と現状から、半田はこの「浩志が泊まりに来ている」というイレギュラーを無事に、かつ理性をもってして乗り切る方法を思案するために現実逃避の手段として筆をとっていると浩志には知れた。言葉を成しているのかすら判らないほどの音量で何かを呟きながら、白い手は筆を握り続けていた。
そんな半田のただならぬ雰囲気に、浩志は肩を落とす。呆れた、というよりもひどく虚しさを感じ、息をひとつ吐いた。

(…こんなんだから、先生はストイックなんだろうな)
(結構、一大決心だったんだけど)

今日、浩志がこの家で一晩を明かすことを決めるまでは、それなりの葛藤があったのだ。好いている相手とはいえ、また、自分のことをそれなりに想ってくれている相手とはいえ。あからさまに性的な意図を含み「そうなっても構わない」と声に出すことは、まだ十代の青年にとってはある種恐ろしいことである。怖くて、けれど強がって。落ち着きと良識のあるしっかり者の皮をかぶって。浩志は、半田を罠に嵌めることを決めた。
理由は、二人の特異な関係に他ならない。確かに好きあって、けれど恋人であるかと問われれば、首を縦に振ることは憚られる。声に出す勇気が、互いにないのだ。浩志は思う。「愛」という言葉は、口にするとひどく薄っぺらい。まだ高校も卒業していない子どもである自分がそれを発することは、とんでもなく嘘臭いことなのではないかと感じられた。
けれどだからこそ、半田と浩志の関係は少しも変わらない。保険や臆病を塗り重ねすぎて、どうしても「あいしてる」の一言が口から出てこないのだ。
だから、一線を越えてしまえと思った。言葉にならないのなら、この手を離れがたくしてしまえばいい。それで、何か変わっていけばいいと思った。それが実は建前で、本当はごく単純に「好きだからそうなりたい」ということが大部分を占めているのはこの際、浩志はまったく気づいていないふりをしている。
目の前で半紙に向かい続けるその人は、浩志が学生であることを気遣い指先で触れることすら躊躇う。それが寂しく悲しくもあったが、半田を責めて泣くほど浩志は子どもではなく、女々しくもない。自分のために頭を抱えてくれる半田のことが好きで、嬉しくて。しきりに唸り声をあげるその背中を見つめながら浩志は少しだけ笑った。

「…やっぱり先生は、先生だな」

放っておけなくて、目が離せなくて、優しくて、いとしい。
ようやくこちらを、ひどく憔悴した様子で振り返る半田を見つめて、浩志は呆れたような笑顔を向ける。年下の男の、年長者のするような表情に気を悪くしたのか、半田は少しの間だけ唇を尖らせていた。
そんな様子に、浩志はひどく安堵する。背格好は恐ろしく整った綺麗な大人のくせに、中身は子どもで、危なっかしくて温かい。そんな半田が、やはり浩志は好きでたまらなかった。

「………なんだよ、ヒロ」
「はは、すげー顔」

絞り出すような声と幽鬼のようにどんよりとした顔がおかしくて、声をたてて笑う。ここに泊まると言う浩志に「どうなっても知らない」と脅す程度には、半田は浩志を「そういった目」で見ているはずなのに。傷つけないように、間違えないように。そんな様子で思い悩む半田のことを好きでよかったと、浩志は緊張をほどいて胸を撫で下ろした。

「お前…っ人がどんな気持ちで、」
「いいよ、先生」

畳の上に半田と視線を合わせるように座って、浩志は深呼吸をする。その様子に軽く目を見開いて、半田はようやくそちらに体ごと振り向いた。
向かい合う。視線が交わる。心臓が、煩かった。喉がからからと渇いて、声を出すことを躊躇する。からん。とうとう、筆が机上に置かれた。
耳まで火の灯るような熱さで、目の奥がじわりと水分に侵食される。きっと自分は今、ひどく情けない顔をしているのだろう。そんな想像をしながら、浩志は戸惑い混じりに同じく情けない表情をしている半田を真っ直ぐに見据えた。

「オレ、大丈夫だから。」
「こわがらないから。」
「だから、その……半田先生、」

吐き出す言葉は、体中に火を点ける。視界がふやけていく。心臓ばかりが別の生命体のように、暴れまわっていた。
呆けている半田に、右手を伸ばす。手を伸ばせば触れる距離だ。お互いのテリトリーのなかで、その体に触れる。それがどれほどの勇気のいる行為か、浩志はこの時初めて知った。ぺたり、白い頬に掌が触れた。
じりじりと、触れた指先が痺れる。肌が、皮膚が柔らかい。きらりと意識を持った両目が揺れて光った。半田の射貫く瞳が、その視線が、浩志にぶつかってどろりと溶けた。

だから、オレに触って。

唇がそう紡いだ時、ようやく右の掌が浩志に向かい伸ばされた。







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