宴会。

□深海
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俺はもうすぐ溺死するのだと本気で思った

「舳丸さん」

水練の先輩はいつもと変わらぬ薄い表情で俺を見た

「俺もうすぐ死にそうです」
「そうか」
「舳丸さんのせいですよ」

一瞬睨まれたような気がした
彼に狙われた魚はこんな気分なんだろうかなどとぼんやり考えていたら先輩の低い声が耳に響いた

「何言ってんだ」
「だってそうなんですもん」
「俺がお前を殺すかよ」
「殺しますよ」

風がぬるいと思った

今までそんなこと感じたことなかったのになぜか今日は生温かい海風も鼻をつく潮の匂いも遠くで鳴く鳥の声も全てがはっきりと鮮やかに感じられた

「俺がお前を殺すのか」
「はい」
「どうして」
「さあ」
「理由も無くか」
「いいえ」

先輩の眉がピクリと動いた俺とのまどろっこしい会話に苛ついている証拠だ
彼を操ることができたような気がして体の底から興奮みたいなものが込み上げてやがてそれは笑いに変わって口からこぼれた
くつくつと笑う俺をさらに不快そうに見る先輩が可笑しくて俺はまた笑ってしまった

「俺の死因はきっと窒息死ですよ」
「溺れるのか」
「ええ」
「お前が簡単に溺れ死ぬとは思えないが」
「簡単ですよ」
「そうか」
「俺は舳丸さんが好きです」

俺がそう言うと先輩は黙った
ずっと前から言い続けてきたことだった
俺は舳丸さんが好きだ
何度も何度も繰り返し伝えた
だけど舳丸さんが俺にはっきり答えを返したことは無かった
だけど俺が舳丸さんに答えを促したことも無かった
別に答えは欲しくなかった
俺の舳丸さんへの気持ちは彼の答えがどうだったところで変わるものではなかったから
舳丸さんはさっきより少し弱ったような目で俺を見た
獲物を狙う側とは思えないひ弱な色をしていた
小魚のようだと思った

「好きです」
「ああ」
「俺舳丸さんに溺れちゃってるんですよ」

我ながらくだらないオチだと思った

「舳丸さんが好きすぎて気持ちが溢れてるんです」
「重」
「海みたいでしょう」

そう言ってからああ彼は俺の中が見えないから俺の思いの大きさはわからないのかと気づいた
いっそそこにあるナイフで胸をかっ裂いて中身を彼に見せてやろうかと一瞬思った

「俺は舳丸さんが好きすぎて、溺れちゃいそうなんですよ」

彼への愛に
自分が抱えている深すぎるその思いに自ら溺れてしまうとは滑稽もいいところだと俺は自嘲気味に笑った
何も知らない赤髪の先輩はまっすぐに俺を見つめていた
その瞳を綺麗だと思った

「舳丸さんにはわからないでしょう」

貴方はいつも愛される方だから
俺がそう言うと睨むかと思った先輩はしかしそうはせず口を結んだまま俺から視線を外した
ああ舳丸さん
きっと貴方にはわかりませんよ
俺のこの息苦しさが
俺の中には貴方への愛が海のようにたまっていて
俺はどんどんその深くて暗いところへと沈んでいく
沈めば沈むほど視界は奪われ息もできなくなるのに
俺は抵抗もせずただ重力のままに墜ちていく
苦しくてももがきもしない
俺はいつのまにか
墜ちていくことを心地好いと感じるようになっていた
いつから俺はこんなにおかしくなっちゃったんでしょうねと彼に笑いかければ
頬に傷を抱えた先輩はその質問には答えず

「簡単に溺れるようじゃ水練失格だぞ」

俺を見ずにそう言って立ち上がった

「そうかもしれませんね」

貴方に俺の気持ちがわかるものか

「水に捕われるな水に殺されるな」

ああそうですね
できればそうしたいけれど
俺は笑った

「溺れない自信が無いんですよ」
「なら水練をやめろ」

彼の声は低かった
仕事に対して本気の先輩を怒らせてしまったかなと焦る

「やめられません」
「やめたくないなら溺れるな」

そんなこと言ったって
去っていく先輩の背中を見つめながら心の中で呟く
そんなこと言ったって先輩先輩にはわからないでしょうけど俺は海を抱えてるんです
逆らうのも惜しいくらいでかい波と
墜ちていくのが気持ちよい深海に
俺はもう溺れちゃってるんですよ
水練はやめたくないけど
溺れないのも今の俺にはできないんですよ
横を通りかかった能天気な表情をした網問を俺は無意識に呼び止めた

「網問」
「あん」
「俺が死んだらきっと溺死だよ」

深く蒼く俺を誘う海はきっと
いつか俺の心臓を圧し潰す。










     深海







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