長編「落月賦」

□氷霜
1ページ/5ページ


灯火の下、前田利家は北陸制圧を命じる主君の書状を見つめていた。
朱の色鮮やかな“天下布武”の印章は、揺るぎない執達でもある。
「まつ…」
傍らを振り返れば、糟糠の妻が深々と伏した。
「いかなる仕儀に相なろうとも、まつめが付いておりますれば…」
慎ましやかな妻の存在を感じ、その言葉の優しい強さに、利家も大きく頷いた。
「某は織田の一員…信長様の御下命なら、某は従うまでだ」
うん、と、再度、利家は頷いた。
それは、自分へと言い聞かせるような仕草だった。
まつには解っていた。
同時に、本当は夫を引き止めたいと思う自分の心も、解っていた。

主君である織田信長は、果断な政策によって国を隆盛させ、その勢いはとどまるところを知らぬ。
しかし、そのために無数の犠牲が生まれ、それは今も増え続けていた。
石山本願寺、比叡山を討伐したときは、婦女子や老人をも皆殺しにして、戦の後は見せしめとして、数百ごとに頭骨の楼観を築かせた。

これから先、諸国へ侵攻する織田軍に、信長は同じ命を下すだろう。
その命を受けたとき、愛する夫は、自分は、それを遂行できるだろうか。
利家とて、城攻めの際に幾度か尽殺作戦を行っているが、それは戦略として必要なのだと腹をくくっていた。
だが、降伏した女子供をだまし討ちにせよと言われたら、利家も、まつも、従うことはできるだろうか。
「まつ、戦はつらいな」
同じことを考えていたのだろう。
利家が、ぽつりと呟いた。

襖が開いて、慶次が顔を出した。
「まつねえちゃん、茶でもくれない?」
何気ない風を装っているが、話に区切りが付くまで、律儀に待っていたのだろう。
まつが、さりげなく湯飲みを出した。
「慶次」
「ん?」
「上杉殿のことは…」
「ああ、大丈夫。天下の軍神が、それくらい知らないはずないし」
「そうか…」
各地を放浪する慶次には、各地に知り合いがいる。前田家当主の甥という立場に寄らず、名の知れた大名たちと胸襟を開いて付き合えるのは、慶次の人徳というものだろう。
越後の上杉謙信は、特に親しい人物の一人だった。
「謙信にさ、言われたんだ。もう春日山へ来ないほうがいい、って」

――わたくしたちが信頼しあっていても、周囲の者が互いを疑い、いがみ合ってしまえば、取り返しが付きません。疑心暗鬼…げに悲しきこと…。

「腹割って話し合ったら、みんないいやつばっかりなのにさ…」

なんで、戦って無くならねえのかな。



次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ