長編「落月賦」

□雲泥万里
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土佐長宗我部氏と安芸毛利氏の同盟は、四月の吉日を選んで締結されることとなった。

条件は、それぞれの本城へ互いが出向き、誓盟すること。


元親が吉田郡山城を訪れると、山頂の本丸ではなく、東尾根の旧城へと案内された。
元就が自ら、この旧城を誓約の場にしたい、と言ったのだそうだ。

――安芸毛利家の礎となった城なれば。

理由を聞き、元親はあっさりと承諾した。
「罠であれば、なんとなされます」
懸念する向きも、ないではなかった。
しかし、元親は
「郡山に入るんなら、どの道、同じことだろ」
そう、腹をくくっていたから、家臣たちとしても強いて引き止めることはできなかった。
しかも、元親自身、今回の元就の言辞を楽しんでいるふうであった。
理由はどうあれ、祖先に誓盟を披瀝するような妙に律儀な行為が、毛利らしいといえば毛利らしいと思ったからである。



毛利興元まで、代々の毛利家当主が住まった郡山旧城は、郡山の中腹に位置し、大きく三つの曲輪に分かれていた。
そのうちの「一の丸」と呼ばれる場所に、かつての本丸だった城館がある。
大和信貴山城以前の多くの山城がそうであったように、郡山城もかつては文字通りの城砦で、城主以下、日常は山麓の館に起居していた。
それが、元就の代になって所領が増大するに従い、城中に詰める人員も増えたため、城郭の規模は大きく発展していった。
近江小谷城、越後春日山城などもそうだが、ここまで拡大した城郭は、必然、恒常的な生活の空間として機能するようになっていく。
文字通り、郡山城は毛利氏の居城なのだ。



旧城とはいえ、建物はよく整備されていた。
近年になって改築し直したのか、小規模とはいえ木造の天守が見える。
中国の石高は、表向きは百二十万石とされるが、実質的には二百万石を軽く超えるといわれている。
毛利元就自身は質素ともいえる生活ぶりだが、国を守り、その家格に相応しい威儀を保つためならば、いっそ大胆なほど費えを惜しまない。
この旧城は、そんな毛利のあり方を示しているようにも思えた。




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