長編「落月賦」

□盤上の君
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毛利元就の手というのは、実に鮮やかであった。
じっと盤面を見詰め続けたまま、無言で石を打つ。
会談を求めたのは毛利自身であるというのに、今や彼の関心はひとつの盤面にしか無いようであった。
男にしては随分と白く細い手が、白い貝玉を差し挟むや、ひらりとひらめき、鋭い音とともに一手を打つ。
ぴしりと鮮やかな音は、手に迷いが無い証でもある。
彼が幾重にも手を考え、先を読んでいることがよく解る。
信玄は、己の狙いが当たったことを確信した。
毛利は、この一局に本物の戦場を映しているのだ。
ゆえに、ただひたすら盤面を見つめ、敵を囲み、攻める。

――しかし

元就が打つ手は、実戦であれば確実に勝利への階を積み上げるであろうが、同時に、確実に自軍の犠牲を伴うに違いない。
無論、戦であるからには犠牲は避けられないのが当たり前で、信玄自身、時に多大な兵の犠牲を出しながら甲斐を纏め上げてきた。
犠牲を厭うあまり勝てる戦を逃して、結局は敗北や滅亡を招くなど、愚の骨頂。
敢えて多少の犠牲を厭わず勝利を勝ち取る。
それが将というもの、軍略というものだ。
現に、目の前の青年はそのようにして、九カ国を統べる大大名へとのし上がった。

――しかし

信玄はもう一度、胸中に呟く。
(かようにためらいのない采配の、あるものかは…)

盤面では、すでに武田の黒石が包囲され、いくつかに分断されていた。
包囲網の外にも、白石が分厚い陣を敷いている。
窮地を脱すべく包囲の薄い場所へ一手、黒石を動かそうとするが、そこへ容赦ない白の後詰が進軍する。
「涼しい顔で、実に食えぬ男よ、毛利…」
この包囲網を破ろうとすれば長考が必要だ。
癪ではあるが投了とすべきか、と、信玄が盤面を見つめて唸ったとき、
「勝負は預ける」
さして感慨もなく、毛利が中断を伝えた。
「その包囲を破れねば、我を下すこともできぬ」
いかにも実戦の試しと言わんばかりの口調に、信玄は眉をひそめた。
「おぬし、これを実戦で用いようと言うのか」
「無論」
「消耗戦がいつまでも持つと思うな。やがては兵が尽き、負ける時がくる」
「拡充すればよいだけのこと。それが我が戦よ」
「……おぬしはまだ若い。兵を動かす快楽に溺れているにすぎん」
張り詰めた沈黙が流れた。
領土の大小があるとはいえ、複数の国を統治する立場、難しさは同じはず。
それなのに、毛利と武田では戦の概念が根本的に異なるのだ。
信玄にとって、兵は人であり、人は国の基である。
毛利にとって、人が国の礎であることに変わりはないが、それが戦における兵となった瞬間から、彼らは戦勝の礎―盤上の駒として、石や木のごとくなるのだ。
「おぬしとは、解り合う日は来るまいな…」
憮然と呟かれた信玄の言葉に、毛利は僅か、笑った。
「理解などと…」
白く冴えた顔の中で、唇だけをつり上げるような微笑。
「人は、所詮、何者をも理解できぬ…」
生命に欠けた、その微笑みは薄ら寒く、どうしようもない寂寥を見る者に抱かせるのだった。





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