「て、敵襲!屋根だ、屋根を狙え!」 敵大将が単身、それも社殿の屋根から飛び降りてくるなど、誰も―元就自身を除けば―予想だにできなかった。 飛来する矢をなぎ払い、元親はひたすら、鳥居へ続く階段を駆け上った。 海に張り出した舞殿には、そこにふさわしい、すらりとした影が佇んでいた。 包囲を突破された怒りで顔を蒼白にしながらも、氷の面と呼ばれるそれは、憎らしいほどに表情が無い。 「お前、さっきの策…あれはどういうつもりだ…」 毛利の切れ長の目が微かに瞬いた。 それは元親の詰問に反応したというより、問われる意味が解らないといった風に見えた。 毛利元就は、何も感じていないのだ。 戦で部下を捨てること、それも、やむを得ぬ状況ではなく、ただ作戦を万全に遂行するためだけに。 「お前、自分の部下を囮にしたのか…?」 湧き上がる怒りを必死に抑えつけて問えば、毛利は煩わしそうに眉宇を寄せた。 「であれば、何だ」 なぜそんなことを聞く、とでも言いたげな口調。 「“何だ”…?」 天藍の右目に、はっきりと怒りが閃いた。 「…自分の部下を見捨てたのか…。俺には理解できねえ…!」 そう、吐き捨てて睨み据えれば、毛利は蔑むような視線を向けた。 「敵に情けをかけるとは…甘い海賊もいたものよ」 火のような怒りと氷の心と。 二つの視線が弾きあった、刹那。 扉が大破し、長宗我部軍がなだれ込んできた。 その瞬間、毛利の顔は平坦な氷の面に戻った。 長宗我部の将兵たちは、大鳥居の向こう、船上で敵大将を追い詰める元親の姿に、歓声を上げた。 事実上の敗北を告げるその歓声に、元就は初めて、苛立ちを見せた。 「突破されたか…使えぬ者どもめ…」 「お前…!」 それがお前の命令で死んでいった部下に対する言葉か! 憤る元親をじろりと一瞥した毛利だが、事も無げに呟いた。 「まあよい…塵が束になったところで、所詮は屑」 「おいッ!」 元親はたまらず怒鳴った。 「俺の部下を塵とか屑とか呼ぶな!」 それを聞くと、毛利は心底煩わしげに眉をひそめた。 あるいは、蔑んだのでもあろう。 底冷えする眼差しで言い放った。 「兵など所詮、捨て駒よ。それが役立たずのあり方に相応しかろう」 目の前が真っ赤になった。 “あの時のアニキは鬼神だった”と、野郎共が後々まで畏怖するほどの激しさで、元親は荒れ狂った。 体中の血が煮えたぎる激昂にまかせ、碇を振り下ろす。 しかし、逆上した攻撃はことごとくかわされ、かえって、隙のない反撃に翻弄された。 「てめぇっ!大将なら逃げまわらねえで、堂々と勝負しやがれッ!」 「阿呆か、貴様。戦に廉直を求めるなど、愚の骨頂…」 白く凍りついた顔の中で、薄い小さな唇だけが、無機質に動く。 こいつとは解り合えない、そう、元親は悟った。 「……そうかい。お前の戦は、よくわかった…!」 元親は振り返らずに叫んだ。 「野郎共、構いやしねえ、船に飛び移れ!」 船が無ければ敵から奪う。これも海賊の戦い方だ。 「海賊の流儀ってやつ、教えてやるぜ、毛利…!」 「愚劣な…」 「ハッ、海賊の戦いに卑怯も愚劣もねえ!」 言うや否や、碇の鉤に輪刀を引っ掛け、力任せに弾き飛ばした。 「ッ…!」 毛利の顔に驚愕が浮かんだ。それが、初めて見る、表情らしい表情だった。 「毛利」 槍の切っ先が、ぴたりと毛利の胸元を狙う。 「船ってのは一人じゃ動かせねえ。てめえも水軍の頭張ってるなら、それぐらい解るはずだ」 「であれば、どうした」 「国も、戦も、同じだ。部下を切り捨てる大将に、兵を率いる資格はねえ!」 沈黙が落ちた。 武器を失い、敵に占領された船上、その身に刃を突きつけられながら、毛利元就はあくまで毅然と佇むのみ。 ふと、柳のような眉が微かにゆがんだ。 「情けか…我には理解できぬ…」 苦いものを吐き出す、そんな呟きだった。 わずかに眉宇を寄せる、それだけが、毛利の表情のすべてらしい。 ほんとうに、感情を忘れてしまっているのだろうか。 「俺も、わからねえよ…。あんた、本当にそれで幸せなのか…?」 言い知れぬ空虚感に、思わず問うた。 問わずにはいられなかった。 こんな薄ら寒い、さびしい物言いをする者など、元親は知らない。 突きつけていた槍が、力を失った。 降りていく刃を見つめていた毛利の顔が、笑った。 唇だけで笑う、底冷えのするような酷薄な笑顔。 「敵を前に情けをかけるとは、愚か者め」 言い捨てるや、毛利は碇の腹を蹴り上げた。 反動で体勢を崩す元親を後目に、一足飛びで欄干へ飛び移る。 「戦とは犠牲の上に成り立つもの…それを受け容れぬ者に、勝利など無い」 冷徹そのものの言葉を残し、その体はしなやかな跳躍とともに拝殿へと舞い戻っていった。 |