長編「落月賦」

□厳島の戦い
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艫綱が絶たれ、船が動き出す。

「貞」
「おう」
「野郎共を外に出すな、船を守らせろ」
「承知」
船上での頭領の命令は絶対。たとえそれが、頭領自ら殿を買って出る、危険な役割だとしても。
殿上の毛利元就を油断無く睨み据えたまま、元親は碇を構えた。
毛利も、あの凍てつくような視線をこちらへ向けたままだ。片時も気を緩められない。

「我が策は臨機応変…いかようにも転ぶ」

極限まで尖った元親の神経は、本能的に危険を察知した。
元親が甲板を転がるように身を伏せたのと同時に、海上と社殿から無数の矢が降り注いだ。
「ちきしょうめ!」
一声吼えて槍を薙いだが、間合いを越えた矢の嵐は元親の腕や脚を容赦なく引き裂いた。

いつの間にか、船の脇に数艘の小舟が付けられている。おそらく、長宗我部軍が船を乗っ取った時点で、毛利側の水兵たちは小舟に乗り移り、主の合図を待っていたに違いない。

「アニキ!」
「うろたえるんじゃねえっ!作業を続けろ、俺が時間を稼ぐ!」

碇槍を構え、堂々と甲板に立つ。
元親の気質を知った上で、毛利はこの奇襲に切り替えたに違いない。
窮地にあって、自ら部下の退路を確保し、殿軍を務めようとする元親の、その性格を。

であれば、堂々と殿軍を務めてやろう。
元親は腹をくくった。

断続的に続く矢の応酬、強弓名高い毛利軍の矢は一撃が速く、重い。
炎で焼き払い、風圧で吹き飛ばし、鎖で弾いても、その負担が徐々に負傷へ響いていく。

「兄者、出航する、早く中へ!」
「おうッ!貞、構わず出しな!」
気遣わしげな親貞へ、わざと余裕を見せた笑顔で答えると、元親は槍を構えなおした。
すでに社殿からはかなりの距離がある。毛利の弓といえども、ぎりぎりの射程だろう。
矢を払いのけながら、慎重に後退していく。
少しずつ退いていく足。


退いてる…この俺が…西海の鬼が……長宗我部元親が!


朱塗りの社殿に佇み続ける翠の影。
遠ざかりゆく細い陰影を睨み続けたまま、元親の心が吼えた。




荒れ狂う鬼の姿を見つめ続けていた元就が、静かに目を伏せた。
「親父殿、追いますか」
「よい、捨て置け。このまま帰還する」
「既に」
準備は整っている、と告げる次男に、元就は振り返らぬまま、満足げに呟いた。

「よいぞ、元春…」




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