回廊を忙しげに渡ってくる、足音の主は解っていた。 その足音から、急報であることも。 「隆元か」 「はい。元就様、急報にございます」 「入れ」 深手に臥せる父を慮ったか、僅かにためらっていたようだが、すぐさま障子が開いた。 複数の書状は事態の重さを告げている。 「詳細はこれに。お読みいたしますか?」 「後で構わぬ。要点だけを申せ」 「は。尼子勝久および山中鹿之助が播磨上月城に侵攻いたしました。兵およそ千」 「フン…尼子の亡霊め、我が倒れたと聞いて迷い出たか。豊臣の動きは」 「特には。あるいは、西国に手を割けぬ今、中国への牽制として黙認しているのやもしれませぬ」 「であろうな。…竹中め、やはり食えぬ男よ」 自身は中国にかかずらわることができないからと、あの男に目をつけたか。 あるいは、毛利元就負傷の噂を聞いた山中自身が、豊臣に掛け合ったのかもしれない。 「しかし、あまりに落ちるのが早い。……明智軍がいたな」 「宇喜多殿の領地に潜伏していたようですが、今は上月城に援軍として駐屯しております。それについては上月城ともども、宇喜多殿が直接、討伐に向かうとのこと」 二通目の書状は、中国の同盟相手の一人であり、やはり冷徹な詭計で勢力を拡大した播磨領主・宇喜多直家からのものだった。 表向きは“此の度、戦は毛利殿煩わせず候”などと殊勝なことが書いてあるが、要約すれば、“上月は宇喜多領ゆえ、毛利は余計なことをするな”という警告だ。 「宇喜多め、手回しのよい」 自分とは質の違う謀略家に、元就は微苦笑した。 しかし、上月は因幡や美作、備中への途上を押さえる要衝であり、いつ尼子勢が中国へ進軍するかわからない。 気まぐれな明智が中国へ舞い戻る危険もある今、国境の警備を固めるべきであろう。 それにしても、と、隆元は形の良い眉をひそめた。 「まがりなりにも旧主とはいえ、明智のような狂人の力を借りるなど…」 「大方、元配下の誼で、とでも言うたのであろう。餓鬼め、まだ血を吸い足りぬと見える…。いずれにせよ、謀反人を引き入れて忠義を謳う山中こそ、愚かよ」 「は…」 隆元は暗く目を伏せた。 (――どこまで業が深いのだ。) 「隆元」 静かな声が、沈みかけていた心を呼び戻した。 「これが、毛利家を背負う、ということだ。我の側近くにいたそなたであれば、解っていよう。そなたには、それを果たすだけの器量がある」 「父上…」 「この急報も、そなたはよく捌いている。それでよい。逸るまいぞ、隆元」 「ありがたき、お言葉…」 深々と頭を下げる、心優しくも陰に翳りがちな子を見る元就の目には、平時にはついぞ浮かぶことのない悲しみが入り混じっていた。 しかし、束の間の温かな空間は、続く急報に断ち切られた。 「お屋形様」 「隆家、いかがした」 「備中高松城より急使、因幡市場城へ尼子勝久軍が侵攻、高松城へは――明智軍が向かっていると」 すっ、と元就の目が細まった。 世人が「氷の面」と恐れる、それは冷たい怒りすら凍てつかせる。 「下衆が……此度こそ首を刎ねてくれる…」 怖気をふるうような笑い声が、嘲りが、蘇る。 ――私はここですよ。 呼んでいるならば、行くまでだ。 「お屋形様…!?」 「父上」 いまだ引き連れたように痛む体を堪え、元就は身を起こした。 「高松城へ向かう。疾く仕度せよ」 「お待ちください、父上ご自身がいらっしゃると…?」 「我のほかに、誰があの蛇蝎を止められるというのだ」 「しかし…」 「隆元、我は下知した。異論は許さぬ」 それは、全てを切り離した、毛利家当主としての命令である。それ以上、何を言うこともできない。 隆元は深くうつむき、侍臣に命じた。 「陣触れをせよ。明智を討つ」 |