長編「落月賦」

□冥底
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「貴方の爪先から伸びるのは、血塗られた屍の道です…。そこを歩くのは、実に気持ちがよさそうだ…」

再びは会うまい、決して会うまいと望んでいた、最も嫌悪すべき者。
「明智……」
血肉の渦に四肢を浸し、明智が振り向いた。
吐き気のするほど優しい微笑を浮かべて。
「待っていましたよ…貴方を…」
氷の眼差しが凝視している。
冷たく圧するその視線は、警戒と嫌悪の裏返しだ。
「…貴方は何のため、ここまでいらしたのです」
「知れたこと、貴様を排除するためよ…」
その答えを聞いたとき、光秀は思わず、哄笑した。
「貴様…何がおかしい!」
確信に満ちた答えを覆されて腹立たしいのか、強い口調で咎められた。
だが、笑いを収めるなど、できそうにない。

――なんと愛おしい人であることよ。

笑いが止まらない。
彼は、毛利元就は、気付いていないのだ。
「とぼけても無駄ですよ!貴方と私、一皮剥けば…同じ色の腸がのた打ち回っている!」
「貴様…我を愚弄するか…!」
予想通りの反応。それがますます、光秀を愉快な気持ちにさせる。
なぜ気付かないのだろう。
なぜ必死に拒むのだろう。
口調は少しずつ激しているのに、その目は、端正な顔は、何も伝えてくれない。
「取り繕うのはやめましょう」
「何だと…」
「貴方と私は同じ…そう、ただ血が見たいだけ」
元就の形のよい眉が吊り上がった。
「言わせておけば…!」
怒りのあまり血の気が引いた顔。
感情が見え隠れする、そのせめぎあいの表情が、とてもいい。
冷たい顔の下で、どんな烈しい怒りが渦巻いているのだろう。悔しさと怒りに身を焼かれる胸中を想像すると、興奮のあまり笑いが止まらない。
「苦しむ人を見るのはとても愉しい!だから、貴方をゆっくり眺めることにしましょう!」
「おのれ…愚劣な…!」
「どうしました?端正な顔がひきつっていますよ?」
嘲弄してささやけば、元就は凄まじい形相で刀を叩きつけてくる。
「ふふ…怖い怖い…」
力を込めて押し返す。
先に身をかわしたのは、元就のほうだった。
「傷が痛みますか?随分とご無理をなさる」
それなのに自ら先陣切って戦に出ようとする姿、痛々しいほど直烈な姿は、あの気高く美しい蝶にも似ていた。
「それでも、貴方は来て下さった…!」
従う者すら無情に焼き尽くす、美しく恐るべき日輪の御子が、死や流血や苦痛、あらゆる恐怖と堕落に飢える己を“求めて”やってきたのだ。
「さあ、おいでなさい!元就公!誰にも邪魔されない、貴方と私だけの宴です!」
この脆く美しい御方を殺したい、壊して犯し尽くしてしまいたい。
けれど、殺したくない、殺してしまっては光を失ってしまう。
かつての主君を弑したときも、殺したくない、この時が永劫に続けばいいと思った。
永久に殺し合い、命をせめぎ合わせる、至上の交わり。
「誉に思うがいい。我が貴様の穢れた魂もろとも、焼き滅ぼしてくれる…!」
「ああ……それならば、私の屍の隣に、貴方も並んでください!」
違う、彼を――毛利元就を殺したくない。
魂まで灼き尽くす光輝のまま、生きたまま、彼を愛でたい。
初めて、愛する存在に「生」を求めた。
(貴方は存じないでしょう、元就公!)
冥い淵に沈む暗い魂が、叫ぶ。

凄まじい音を立てて、互いの武器が折れ飛んだ。
「ちっ…」
「おやおや…」
元就は、まだ方術を使おうと思えば使える。
光秀は、死霊に身を護らせることができる。
いずれにせよ、満足な刃がなければ決着はつくまい。
「お名残惜しいですが、本日はここまで…」
「ふ、ん……すでに貴様の逃げ道はない」
光秀の背後で、毛利軍の勝鬨の声が聞こえる。
「いいえ、もっと生き延びて、貴方を眺めていたくなったのですよ、元就公」
「覚悟を決めよ、明智」
元就の声には答えず、光秀は折れた刃を拾い上げる。
「貴方の武器、名前はありますか」
「聞いて、なんとする」
「私のこれは、“死壊”といいます」
ためつすがめつしていたが、つまらなさそうに放り投げた。

「天輪」

静かな声に、光秀ははっと顔を向けた。
「天輪…」
なるほど、彼らしいと思う。
「天の日輪ですか…ふふふ、それはいい…」
元就が太刀を抜くのと、光秀が身を翻して断崖に身を投じるのとは、同時だった。
黎明の深い暗闇に、哄笑が吸い込まれていく。
「逃がしたか…」
元就は忌々しげに呟いた。
明智氏は、軍勢としては壊滅した。
再び興ることはできまい。
しかし、光秀は生き延びるだろうと、元就は苦い確信とともに理解していた。





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