長編「落月賦」

□愛別離苦
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寿満、寿満――と、くり返されるか細い声。

「よいですか、高橋のお家では、おとなしう、よく言いつけを聞き、礼儀を守るのですよ」
「はい、母様」
「どうぞ、早う、毛利の家へ戻っておくれ…」

「玉生」

松明の火に、決して溶けることのない氷の眼が、静かにきらめいていた。
「玉生、それまでにせよ。別れが辛くなる」
新しい絹の小袖を着た童女の、肩上げも取れぬ小さな体を抱きしめ、妻は名前を呼び続ける。
「すこやかに…風邪などひくではありませんぞ」
「はい」
愛らしくうなづくと、寿満――元就と玉生の幼い姫の振り分けた髪が揺れる。
「寿満は、父上様、母様のおっしゃることを、しかと守ります」
幼い姫は笑った。
「そうして、毛利の姫に恥ずかしくないように、毛利のお家のお役に立てるようにいたします」
その言葉に、玉生は声もなく娘を抱きしめた。
柔らかな肩越し、震える母の背を、寿満はふしぎそうに見た。
「母様?」
幼い姫の目が、答えを求めるように父を見る。
黒く大きな瞳に、赤々と輝く炎、そして、冷たく澄んだ顔が映っていた。

「よいか、寿満」
そのとき初めて、元就が娘へと歩み寄った。
「毛利の家名を汚すことなく、毛利の姫として、誇り高く、清く生きよ」
「はい」
「母上のお言葉を忘れるな――礼節を保ち、強くあれ」
「はい」
「すこやかに、よく勤めを果たせ。よいな」
「はい、父上様」
幼い心で、どこまで理解しているのか。しかし、真摯な黒い瞳は深く、明朗に父母の言葉を受け止めている。
「寿満」
元就の手が、娘の額を、やわらかな髪を、優しく撫でた。

「つつがなく、戻ってまいれよ」










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