短編集

□空蝉よ、人
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「悪く思うなよ」


疼く脇腹の痛みに遠のきかける意識。
投げかけられた言葉は、熱の欠片もない、乾いた音だった。
滲んだ視界の向こうで、あの鬼はどんな顔をしているのだろう。
興味を無くした、ひどく醒めた表情で事の成り行きを見ている。そう思った。

「なぜ……」

――あんたに渡したい物がたくさんあるから。
――会いに行く。
いつからか、そんな書状が届くたびに、言いようのない温かさを感じていた。
だから、今も待っていた。

生命が輝くような言葉、笑顔。
そのぬくもりに触れるたび、冷たい何かが少しずつ、淡雪を溶かすように零れ落ちていったのに。

だから、ただ、待っていたのに。

「なぜ」

答える声はない。
突き放された体が、薄縁の上に倒れる。
「あんたでも泣けたんだな」
感慨に乏しい呟きが、空しく耳に届いた。

熱い、痛い――
半ば沈みかけた意識の淵で、残酷な会話だけはやけにはっきりと聞こえた。


「首尾は上出来だ。まさか、あんだけの大荷物をNo markで通せるたぁ思わなかったぜ」
「なに、今回は中身がちっと物騒だったってだけよ」
「それにしても、あんた、ためらいがねえな」
くしゃりと髪を撫でられる感触。
「いつまでも続くような間柄じゃなかったってことだ…」

解っていた。
いつまでも続くことはない、かりそめの平穏だと、解っていた。
それでも、こんな終わり方だけは望まなかった。

「天下は要らねえ、興味はねえ、つっても、背中にこんなでけぇ国が控えてるだけで厄介だろ」
こいつだって、と、かつて好意を持ったはずの男は、ひどくよそよそしい。
「こいつだって、時勢見てゆくゆくは四国を獲っただろうしよ」
「ま、それがこの世の習いってやつだな。今更後悔なんてできやしねえ」

熱く濡れた眦を指で掬い、またくしゃりと髪を撫でられた。
「Rest in peace…あの世で俺らの天下獲り、見物してなよ」

――天下など、要らぬと

天下など要らないのだと。
家が続くのであれば、中国とともに降る覚悟もあった。
そんな考えを、彼は、長宗我部元親は、理解してくれていたと思ったのに。

今度こそ、誰かを信じられたと思ったのに。
信じたかったのに。
信じさせてくれると思ったのに。


視界が赤く染まっていく。
あの男がよく寝転んでいた座敷も。
盃を酌み交わした回廊も。
他愛ない会話を繰り返した、この部屋も。
全ては炎の中で、燃え尽きていった。




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