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□幸福論
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「お…いし」
「大丈夫だよ」
なにが大丈夫なのか分からない。気休めにもならないのは本人にも分かっているだろう。なのに俺の口から漏れたのはいつものように彼を安心させてやるための言葉。素人目にも彼は助からないだろうとわかる。例え今すぐ救急車が来てすぐに病院に着き、完璧な措置を施したとしても。
じっと注がれる視線から一度も視線を離さないで見つめ返す。彼の瞳は、命の灯が急速に薄れていく今の瞬間においても、普段と同じく生命力溢れる熱っぽい光を湛えている。しかしそれに反してなぜかその表情は凪のように静かだ。
そこまで考えて、自分がやけに冷静だと気がついた。
恋人が死のうとしているこの時に、自分は必死になる様子も無い。なぜだか心がまったくざわめかない。ただ穏やかで、一片の焦りもない。彼を見つめる瞳は揺らぐこともせず、見えなくても自分が微笑みを浮かべていることがわかった。
その理由はわからないまでも、考えることをやめてもう一度そっと彼の手を握る手に力を込める。
「大丈夫だよ」
力のどんどん抜けて行く彼の手と対照的に自分の手はしっかりとその手を掴むことが出来る。
意図の曖昧なまま壊れた玩具のようにただそう、励ますように繰り返す。
風邪を引いて寝込んでいる子どもを宥めるように、一人で逝く彼に優しく繰り返す。



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