07/27の日記

15:19
生きる意味さえ見失って / シリアス / 熱斗、デカオ
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【生きる意味さえ見失って】

それは、まだ梅雨の気配が抜けきらないまま気温だけが馬鹿馬鹿しいほど高くなる七月上旬、前期授業の終了まで残り一ヶ月を切った頃の、ある昼休みの熱斗とデカオの会話である。

その日は熱斗とデカオが週に一度大学で顔を合わす曜日で、二人は近くのコンビニで軽食を購入した後、それを大学構内の食堂に持ち込んで昼食を摂っていた。
熱斗は安くて具が少なくどこか味気ないサンドイッチと、輪切りにされたチョコレート味のロールケーキを、デカオは前日のうちに父親が買ってきたという菓子パンを食べている。
元々高校の時点ですでに個人行動(本当は、一年生の頃は友達を作る気でいたが、色々と失敗してしまった為に諦めた)が目立ち、大学に入ってからは家族(ロックマン含む)以外の誰とも話さない毎日を覚悟していた熱斗にとって、大学で唯一口を利く同世代(つまり学生)であるデカオとの昼食は、熱斗が唯一、自分も大学生なのだな、と思える瞬間であって、熱斗はこの形式的にはリア充めいた行動をさほど嫌悪しておらず、それどころか、こんなにも落ちぶれた自分とまだ口を利いてくれる人間がいるなんて、と、ありがたささえ感じていた。
ただ、だからと言って熱斗はデカオにそれ以上の事を求めようとは思わない。
その理由は、今更書き記すまでもないだろう。
とはいえ、熱斗はこの時間が嫌いではなかったし、苦痛でもなかった、が、それは飽く迄もデカオが熱斗の世界の中に埋め込まれた地雷を踏まなければの話である事を、熱斗は思い知らされることになる。
それは、熱斗の何気ない発言が始まりだった。

「あー、OSの仕組みの授業どーしよー……。」

具の少ないツナサンドを一口ほど齧った後に、熱斗がウンザリした様子で呟いた。
OSの仕組み、それは熱斗がこの昼休みの後に二時限に渡って受講する予定の授業の名前なのだが、熱斗はどうもこの授業についていけていない節がある。
提出しなければいけないレポートはいくつか期限が過ぎていて提出不可になっているし、そもそもそのレポートを制作するための課題(主に、様々な言語でプログラムを組まされる)がまずできないのだ。
レポートの提出と評価は勿論成績に影響してくるから、レポートの未提出をカバーするためにテストで取らなければいけない最低限の点数は上がっていくばかりだ。
だが、そのテストも、たとえプログラムを組まされないにしても、熱斗はあまり自信がない。
一応、練習問題と称されたプリント形式のレポートは提出しているが、それだって覚えた知識を脳内から引き出したというよりは、これまでの講義資料を漁ってそれらしい知識を引っ張ってきただけで、熱斗が知識を蓄えている証拠にはならないどころか、その反対を証明している。
正直、もう今回は諦めてしまいたいのが本音で、しかし例え今年は単位が取れないにしても、来年また受講する可能性を考えれば一応最後まで授業に出てテストも受けておくべきかという気もして、だがやはり単位の取れない授業に出るぐらいならその時間で他の授業の予習または復習をする方が有意義な気もして、結局のところ熱斗はどうすればいいのか全くわからずにいるのだ。
だからおそらく、熱斗はそんな不安や苛立ちを誰か、たとえばそう、自分よりもずっといいペースで単位を取っていて、四年間での卒業の可能性が高いデカオに聴いてほしくて、ついつい女のような情けない愚痴をこぼしてしまったのだろう。
だが、これがいけなかった。
熱斗の目の前で菓子パンを食べているデカオは、熱斗のぼやきを聴くと呆れたように眉をひそめる。

「どうしよう、ってお前なぁ、」
「ホントにどうしようなんだよ。平均成績にも影響するから日数で落として受けてなかった事にするのもありだけど、でも火曜日は一日も休んでないから今から休んでも欠席日数足りないんだよ……。」

デカオの言葉を遮るように現状を軽く説明した熱斗は、やや大げさに溜息を吐いてから味気ないツナサンドを再び齧り始めた。
味気ないツナサンドはパンも中身も薄く、時間をかけて食べるような代物ではない。
熱斗は特別がっつく訳でもなく、しかしもう少し分厚いサンドイッチを食べるよりは少し速めに薄いツナサンドを食べ終え、同じパックに入っていたこれまた薄いサンドイッチ――こちらはとても薄いハムの入った玉子サンドのようだ――を齧り始めた。
そんな様子の、自分から愚痴をこぼしておきながらもその内容をそれほど深刻に考えていなさそうに見える熱斗を見かねてか、デカオは相変わらず呆れたと言いたげな表情で口を開く。

「あのなぁ、また来年、いや来学期か? とにかく次もまた取る気があるなら最後まで受けりゃいいし、もういいってんならフケりゃいいだろ。」

それがごもっともな意見である事は熱斗も否定はしない。
しかし熱斗は、半分ほど食べ終わった玉子サンドを口から離すと、それには一つ問題があると言いたげに反論した。

「……ってもさぁ、来年とか来学期に受けるかどうかなんて、その時になってみなきゃわかんねぇよ。」

来年、または来学期の、何曜日の何時時限目にその授業が開講しているかなどということは、その時になってみて初めて発表されるものであって、今すぐ決められるようなものではない。
特に熱斗は、一年生のうちに取るはずだった英語の授業の単位をを落としていたり、そのせいで今年取るはずだった新しい英語の授業を取っていなかったりと、来年または来学期の時間割に対する不確定要素が多い。
今学期に受けている英語・読み書き一の再々履修も確実に取れるとは言い難いし、両親の間では理系らしい科目よりもやや文系寄りの科目を先に取ってしまうべきだという話も出ている。
そういった事を考慮すると、熱斗は必ずしも来年または来学期にOSの仕組みの授業を受け直すとは言えず、しかし受け直さないとも言えず、また受け直すにしても来年や来学期よりも後になる可能性も排除できないのだ。
だから熱斗はこの件は一度保留という形をとりたくて、その場合今はどうするべきか(例えば、OSの仕組みの授業をサボって、その分英語・読み書き一の授業の予習復習に取り組む、など)を考えたかったのだが、どうやらデカオに言わせればその考えは強力な合成甘味料よりも甘いらしい。

「だからそれを決めろよ。」
「決まんねぇって言ってんだろ。」

熱斗の抱える不確定要素を知ってか知らずか、それは分からないが、デカオは熱斗に来年または来学期もOSの仕組みの授業を受けるのかどうか早く決めろと言ってきた。
当然のごとく、熱斗はそれに反発してから再び玉子サンドを齧り始める。
デカオの益々呆れたと言いたげな表情と雰囲気に、何故だか嫌な予感がして、熱斗は早々に玉子サンドを食べきり、輪切りにされたロールケーキの入った袋を開けた。
すると案の定、デカオはそこで話題を変えようだとか、会話を終わらせようだとかはせず、ロールケーキを食べ始めた熱斗に容赦無い追及を行う。

「そもそもなぁ、お前はいっつも“分からない”って言うけどよぉ、一体何がわからないっていうんだよ?」
「う゛っ……。」

二センチほどの厚さで輪切りにされたロールケーキを食べ終えた熱斗は、それを訊くなよ、とでも言いたげに言葉に詰まり、視線を目の前のテーブルに落としながら苦い顔で考えた。
正直な話、熱斗にはその分からない部分を、何がどうわからないと誰かに伝える事ができる程度の能力すらないのだ。
だが、ここで“全部が分からない”と言ったところでデカオは納得しないだろう。
だから熱斗は、自分の中に僅かに残る授業の記憶を引きずり出して、それっぽい単語を並べてみる。

「……例えば、ディレクトリとか……」
「ディレクトリって何のだよ?」
「……アカウントを作る?」
「ディレクトリでアカウント? どういう意味だぁ?」
「いや、だから、その、端末とかいうのを使ってなんかコマンドを打ち込んでアカウントを……」

熱斗の稚拙でたどたどしい説明では、デカオには熱斗が何を言いたいのか理解できなかったらしい。
それもそのはず、正直説明をしている熱斗自身が言葉の意味を理解しきっていないのだから、それをそれっぽく適当に並べてみたところでデカオに通じないのは無理もない。
熱斗はだんだん自分が情けなくなってきて、声に張りが無くなっていく。

「あと前からだけどC言語とか……シェルスクリプトとか……。」
「だから、C言語とシェルスクリプトの“何が”分からないんだよ。あとC言語は本でも買えよ。んでそれ持って先生の所に訊きに行けよ。」

そこでまた熱斗は言葉に詰まった。
先生に訊きに行く、なんて、デカオ相手にすら何が分からないのか上手く説明できない熱斗には無理難題でしかない。
例え先生と言えど、ある程度のレベルに達していない生徒には何も教えようがない、それを熱斗は既に身をもって知っているのだ。
だから、熱斗はデカオの意見――本を買ってそれをもって先生に質問をしに行け――に、半分は賛成しつつもう半分は反対する。

「本はそりゃ買えばいいけど、訊きに行くのは俺には無理だって……。」
「なんでだよ?」
「いや、だって訊いていいレベルに達してないっていうか……。」
「なんだよ、その訊いていいレベルって。」

張りも元気もなにも無くなる熱斗の声とは反対に、デカオの追及の声は何らかの人物の記者会見に訪れた記者のように鋭くなっていく。
熱斗は、これ以上この話題をつづけるのは自分の精神が持たないという意味で不味い、と思うも、他に話題をすり替える技術など熱斗には無く、すり替えようとしたところで今の追及モードなデカオがそれを許してくれるとは思い難い。
ともかく、説明しなければいけない、その一心だけで、熱斗はまず訊いていいレベルとは何かを説明しようと視線を上げた。

「だから、ほら……線形代数学の時だってさ、先生に訊いても教えようがないって言われたじゃんか……。」
「それは熱斗が“何処が”分からないか説明しないからだろ。」
「だから……だから、んな事説明できたらそもそも分からなくならねぇっての……。」

線形代数学の時も、今回のOSの仕組みも、何処がどうわからないなんて明確でピンポイントな話じゃない、と熱斗は言いたかったのだが、デカオはそれに納得がいかないらしい。
おそらく熱斗以外の生徒(デカオ含む)は、例え分からない問題があったとしてもそれは、何処が、どう、何故、分からないかがとても明確で、熱斗のように分からない個所の説明に詰まったりはしないのだろう。
こんな風に、分からない個所が分からない、もしくは全体的に分からないなどという醜態を晒しているのは、世界広しと言えども熱斗だけなのだろう。
情けない、ただひたすらに情けない。
デカオや他の同世代には出来る事が、自分には少しもできない、それを目の前に突き付けられるだけでも、熱斗は胸に鋭い刃を刺し込まれたような気持ちになって鼻の奥がツンと痛くなるのだが、デカオはそんな熱斗の頭を強力な銃で撃ち抜く、いや吹っ飛ばすような一言を告げて来た。

「熱斗、お前なぁ、そんなんじゃ大学来てる意味ねぇぜ?」

ヤバい、これは泣く、と感じた熱斗はフイッとデカオから視線を逸らし、斜め上を向いて極力目を見開いてみたが、鼻の奥の痛みは治らない。
視界が僅かに歪み始めて、熱斗はそれが外に零れない様に必死に上を向く、が、視界を歪める水分は湧き出すばかりで、熱斗はそれを服の袖で拭う為に、そしてその顔をデカオや周囲に見せない為に、仕方なく下を向いた。
悔しい、泣きたくなど無いのに涙が出る、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい。
落ち着け、デカオは何も自分を泣かせたい訳では無い、自分よりも上位の人間として下位の人間である自分にアドバイスをくれているだけだ、そう思おうとしても、上手くそう思えない。
そんな事より、どんな事より、自分が他者より確実に劣っていて、大学に来る意味も無い能無しだという事実が悲しい。

「というかお前、もっと勉強しろよ。じゃないとホント此処来る意味ねぇから。卒業もできないだろ。」

胸を刺され頭を吹っ飛ばされた身体の、今度は胴体を抉られて内臓を引きずり出されるような感覚がした。
確かに自分は人より鈍間かもしれない、むしろ完全に鈍間だ、四年間で卒業など夢のまた夢だ、八年だって厳しい道のりかもしれない。
だけれども、そんな自分でもできる事はあるはずだと、できる事もあるはずだと、小さくても結果は残せるはずだと、そう信じて年々重怠くなる体を引きずって此処へ通い続けて、デカオのように授業中に居眠りする事も無く授業を聴き続けて、苦手な宿題も何とか少しでも多くこなすように気を付けて、次のテストに向けて関連する本だって読んでいる、嗚呼それなのに、自分は此処に来る意味がない? そして自分は努力をしていると言えない?
熱斗は一度、デカオの言葉に対する否定の言葉を探した、自分だって此処に来る意味はあると、努力していると言える事もあると、そう言おうとした。
しかし熱斗には、デカオが提示する努力の基準――きっとそれは世間一般の最低限の努力の基準――に匹敵する行いは見つからなくて、“いや”だとか、“だけど”だとか、“でも”だとかいう否定の言葉は上手く使いこなせない。

そうか、自分が努力をしているなど、此処に来る意味があるなど、普通程度の人生は送っているなど、おこがましいにも程がある勘違いだったのか。
そう思った瞬間、ついに悔しさは限度を超えて、限度を超えた悔しさは水滴になって目じりからこぼれた。
熱斗は焦って袖でそれを拭う。
泣きたくない、こんな大勢の人間がいる場所で無様に泣きたくなんかない。
例え、自分が最底辺未満の人間である事が事実だとしても、せめて笑って開き直っていたい。
でも――。

「どうせお前大した勉強してないんだろ? だからまずはC言語は本を買ってそれから先生のとこに行くとか――、おい熱斗?」

デカオのありがたいお説教に、熱斗は何も答えなかった、否、答えられなかった。
ただひたすらの情けなさと悔しさ、そして絶望感が津波のように勢いよく押し寄せて全てを飲み込む度、流したくもないのに流れだしてしまう堪え切れない涙が頬を濡らす。
嗚咽を殺す事で精一杯となっている呼吸器に、声を出す事などできはしない。
熱斗は俯いたまま前髪と服の袖で顔を隠しつつ、必死に呼吸を落ち着けて涙を止めようと試みる。
しかし、押し寄せる情けなさが、悔しさが、絶望感が、やはり津波が堤防を越えて港街へ侵食するかのように、熱斗に涙を流させ続けると共に、一つの思考のループを作り始めていた。

分かっている、分かっているのだ、本当はもっと昔から分かっていたのだ、自分に人並みの価値など存在しない事ぐらい、分かっていたのだ。
人並みの価値とその価値を与えられるだけの実力を持った人間は、幼児期からすでに親の期待に応え続け、小学校の勉強程度難なくこなして、次のステップである中学校でも熱斗のように急激に落ちぶれる事など無く、高校も熱斗が行ったような底辺の集い場ではない場所へ行き、開けた選択肢の中から自分の道を自分で選んで大学に行くなり短大に行くなり専門学校に行くなりして自身の武器を増やしていき、やがて優良な会社に就職する。
それこそが“人並みの条件”で、“普通の人間”で、“人間と言える最低限の条件”なのだという事ぐらい、当の昔に分かっていたのだ。
だから、それができない自分は決して人並みではない、人並みとは到底言えない、つまり普通の人間ではない事ぐらい、本当は、もっと昔――例えばそう、勉強も人間関係も急激に上手くいかなくなった中学時代――に分かっていた。
それでも、あの頃はまだ若かった、だから、自分だってまだまだ捨てたものではないだとか、いつかはできるようになるだとか、そんな言い訳で、その事実から目を逸らしていられた、それが許された、けれど……。

あれから早六年、熱斗はもう、その言い訳で都合のいい未来を見る事が許されない年齢になっていた。
数々の能力の限界が明るく開けていたはずの視界を酷く狭め、そのうえで目隠しをしながら命綱無しの綱渡りを続けるような緊張と自己責任に満ちた毎日が、熱斗の生きる希望を少しずつ削いでいく。
学校の授業で書かされた未来への意気込みに、成績が下がると知りつつも書く“やはり能力のない自分は首を吊るしかないのかもしれないと思いました。”の一文は、その顕著な例と言えよう。
だが、それでも熱斗は普段の生活の中では、それを自分の目前に置いて直視する事は滅多に無かった。
何故なら、そうしなければとても正気で生きてはいけない事を、無意識のうちに理解していたからだ。
精神が未成熟なまま身体だけ成熟してしまったというアンバランスや、勉強だろうが人間関係だろうが何だろうが常に付きまとう無能の烙印や、それらから導き出される希望の無い未来を自覚しながら生きる事の何と苦しい事か。
それはまさに生の苦しみと言うに相応しく、その苦しみはじわじわと精神を蝕んで熱斗に様々な自己破壊行動を起こさせる、脳裏に“死”の文字を浮かび上がらせる。
だから熱斗は普段、無意識のうちにその問題から目を逸らし、自分が普通であるかのように振る舞う事で、他の誰でも無い自分に“自分は普通だ、人並みだ”という暗示をかけるよう努力していた。

だが、その暗示は所詮暗示に過ぎず、事実や真実にはならない。
デカオにその気は無かったかもしれないが、デカオの言葉は確実に熱斗の“普通、人並み”の暗示を剥がし、その下の無様な真実を剥き出しにしてしまったのだ。
一度無様で醜い真実がむき出しになってしまったら、そこから垂れ流れる汚泥を塞き止める術は無いに等しい。
熱斗はあっという間に、その汚泥の底へと沈んでいく。

死にたい。

こんなにも無能で、こんなにも無価値で、こんなにも無意味で、こんなにも醜悪な自分など、死んでしまえばいい。
どうせ生きる価値は無いんだ、どうせ生きる意味は無いんだ、どうせ生きる力もないんだ、どうせ軽蔑の対象なんだ、死んでしまえ。
汚泥はそう熱斗に囁きかけてくる。
そこには希望という光や透明感は一切無い。
嗚呼、悲しい。
嗚呼、死にたい。

そうしてすっかり沈黙してしまった熱斗を見て、デカオは少し困った顔をしたようだった。
それもそのはず、デカオとしては熱斗を泣かせるつもりなど無く、熱斗を少しでも上に引き上げようという親切心を出しただけだったのだから。
だが、結果として熱斗は自分の生きる意味すら見失って黙り込んでしまった。
これにはデカオも困ったのか、そして少し言い過ぎたと思ったのか、デカオは少し困った顔で考えてから、先ほどの責めるような声音を少し優しいものに変えて語りかける。

「あのな、別にお前がどういう選択したって、それを責める奴はいないから、な?」

そんなの嘘だ、そもそもお前が責めているじゃないか、という言葉を、熱斗は人知れず飲み込んだ。
デカオは続ける。

「その、あんまり思い詰めることは無いからな?」

もっと考えるように示唆したのはお前じゃないか、という言葉も、熱斗は口から出る前に飲み込んだ。
デカオはまだ続ける。

「ほら、一人で訊きに行くのが嫌なら俺も一緒に行ってやるからよ。」

一人で行こうが二人で行こうが、質問する人間が自分である時点で何も変わらないに決まっている、という言葉の代わりに、熱斗は沈黙を続けた。
デカオは困った様子でまだまだ続ける。

「だから、その、大丈夫だから、な?」

一体何が大丈夫だと言うのやら、大丈夫な事なんか一つも無くて、大丈夫ではない事ばかりが漂っているのに、と思いながらも、熱斗はほんの僅かに頷いて見せた。
その時デカオが心底ホッとしたであろう事は、誰もが容易く想像できるだろう。
ただ、熱斗がデカオの言葉に形だけ頷きながら、内心ではそれをすべて否定していた事は、一部の人間にしか想像できないか、もしくは誰にも想像できないかもしれないが。
ともかく、デカオは熱斗が頷いてくれた事で安心したのか、自分が食べていた菓子パンの袋を片づけ、椅子から立ち上がる。

「俺、次の授業があるから先行ってるな。」

それは教科こそ違えど熱斗も同じなのだが、というツッコミをかましてくれるような人物はそこにおらず、デカオは熱斗がもう一度頷いたのを見るとそのままその場を離れた。
先ほどよりも利用者数が減ってきた食堂に、熱斗だけが残される。
所謂、置いてけぼりだ。
熱斗は服の袖で涙を拭うと、下を向いたまま長い溜息を吐く。
その息はほんの少しだけ引き攣っていて、自分は確かに泣いていたという事実を目前に突き付けられた熱斗は強い悔しさを感じた。
本当に、酷い悔しさだった。
だが、今の熱斗には、その悔しさをバネにして自分の能力を伸ばす、などという綺麗事を本当にする力は無い。
完膚なきまでの敗北感、どうしようもない無力感、そして立ちこめる絶望感が、死への渇望が、それを邪魔しているのだ。

だが、それでも時間は刻一刻と進んでいく。
熱斗は涙を拭い呼吸を整えると顔を上げて、左手首にはめてある腕時計を見た。
次の授業まではあと十分程度しかない。
最初にも言った通り、熱斗は次の授業に出席するか欠席するかを悩んでいたが、此処で泣いているぐらいなら行くだけ行っておくべきかと考え、テーブルの上のゴミを整理して席を立つ。
そしてそのゴミを少し離れた場所にあるゴミ箱にきちんと分別して捨ててから、次の授業の教室へ向かうべく熱斗は食堂を出た。
まだ、少しでも衝撃が加われば涙が止まらなくなりそうな不安定な状態ではあったが、幸か不幸か、次の授業に熱斗と親しい人物はいない。
そもそも、この大学では一部の教員かデカオ以外には話せる相手がいない、というのが熱斗の現状なのだ。
励まされもしないが、また説教をされる事も無いだろう、それだけが救いだった。

それは、まだ梅雨の気配が抜けきらないまま気温だけが馬鹿馬鹿しいほど高くなる七月上旬、前期授業の終了まで残り一ヶ月を切った頃の、ある昼休みの熱斗とデカオの会話であった。


end.

◆◇

某議員が号泣会見をする三、四時間ほど前の事でした。

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