他三国志書

□熱
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 部屋に、酒を注ぐ音だけが流れる。
 笑む夏侯惇を見ながら、曹操は酒に口付けると、夏侯惇も酒に口付けた。
「もうすぐ夏だな」
「はい」
 段々と暑くなる。
 それは、肌で感じてよく分かった。
「……今年は大丈夫か?」
「……大丈夫です」
 一瞬俊巡し、夏侯惇は頷いた。
 だが、穏やかな双眼には、微かに不安が残っている。
「……蒸し暑い部屋に止まるな。外に出ろ。だが、あまり日の高い時に外には出るな。水を飲め」
「はい。出来得るかぎり、そういたします」
 段々と兵が増えている現状では、日中に調練をするなというほうが難しい。
 特に、夏侯惇にはかなりの数の兵を纏めてもらっている。
 これからもっと増えるのだ。
 そうなると、水を飲む間もなくなるだろう。
 いや、兵達に気をとられ、自分のことを疎かにするに違いなかった。
 暑い日に、曹操が知るこれまでに三度倒れているだけに、心配でたまらなかった。
「お前は自分のこと忘れるからな」
「……」
 何か返さねば、と思っているのだろうが、言葉が出ないらしく、夏侯惇は俯いて目を泳がしている。
 自覚はしているようだが、実行するかはまた違った話になる。
「夏侯惇」
「何でしょうか?」
「お前が倒れるたび、恐くなるのだ」
 夏侯惇が、目を見開いた。
「殿が私を思って頂けるのは、嬉しく思いますが、一介の将ごときで心を裂かれ――」
「間違うな、夏侯惇!」
 夏侯惇の言葉を遮り、曹操は声を荒げた。
 驚いたまま曹操を見つめている夏侯惇を曹操は抱き締めた。
 曹操よりも夏侯惇のほうが体格も身長も大きかったが、背に曹操の腕が回った瞬間、包まれるような気がした。
「殿……?」
「お前だからだ。夏侯惇」
 不思議な感覚に戸惑う夏侯惇に曹操は甘い声をかけた。
 途端、顔を赤らめ、夏侯惇は曹操に体を預けた。
「最期の最期まで、お前には付き合ってほしい。これは命令だ」
「分かりました。ずっと心に止めておきます」
「……お願いだから、熱気の籠もった部屋には長時間止まるな。二度、それで倒れたのだぞ」
「はい。殿の願い、必ず守ってみせます」
 優しく笑んで、夏侯惇は答えた。
 この、はにかむような穏やかな笑みが、曹操は好きだった。
 夏侯惇を失う恐さを、倒れた時に想定してしまうことが、たまらなく嫌だった。
 それだけではない。曹操は戦を想定することは、嫌いではない。むしろ、好んでいた。
 だが、戦を想定するにあたりこの、夏侯惇という従兄弟が死ぬという場合になると、たまらなく嫌になるのだ。
「殿のお体は、とても暖かいです……」
「私も人だ。とうぜ……」
 言葉を発しながら、自分の肩に顔をうめている夏侯惇に視線を向けて、曹操は思考を制止させた。
 うっとりとした気持ち良さそうなほほ笑みを浮かべ、そこに微かに紅をさした頬の夏侯惇が、見惚れるほどに美しかった。
「殿?」
 顔を起こし、不安そうに見つめる顔が、色っぽいと思う。
 ごくりっと、曹操は唾を飲み込み、ゆっくりと夏侯惇の頬に触れた。
 女のような柔らかさも艶やかさもない肌だったが、それが女以上に綺麗に見えた。
 気付けば、指先が触れるのを戸惑い、震える程で、曹操は自分がおかしいと思った。
「殿?どうかなされましたか?」
 ますます不安になる夏侯惇は、震える曹操の手を掴んだ。
 微かに冷たい、ごつごつした手だ。
 そういえば、長年ともにいても、手と手をあわせたこともなくて、掌のことも温度も感じたことがなかったと、曹操は思い出した。
 初めて知ったその感触が、曹操を高ぶらせた。
「……!?え、あっ!?殿!?」
 はっと気付けば、夏侯惇は自分の下で狼狽えていた。
「えぁっ?何が?えっと?」
 混乱のあまり、抵抗することも忘れて夏侯惇は意味の分からない声を上げている。
 その姿が、可愛くてしかたがなかった。
 男に対して称する言葉ではないと思ったが、心の底から、曹操はそう思った。
「……夏侯惇」
「はい!」
 ここにいることを噛み締めるように口にすれば、反射的に夏侯惇は上ずった声で返事をした。
 ふと、沸き上がる好奇心が抑えきれず、曹操は再度夏侯惇を呼んだ。
「……元譲」
「ぁっ!!」
 これ以上ないというほど、顔を真っ赤にさせ、夏侯惇は目に涙をためてまともな声も出ず、狼狽えている。
 おそらく、頭の中は混乱のあまり、かなり沸騰しているのだろう。
「……このまま、熱で倒れるのではないか?お前、かなり熱いぞ」
 笑いが耐えきれず、笑いながら、夏侯惇に告げてみれば、涙目で睨まれた。
 恐くなかったが、欲望が抑え切れなくなりそうになった。
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