人間が死ぬ瞬間を初めて見たのは、小5の冬だった。
同居していた祖母が心筋梗塞で倒れたのは、その年の最低気温を記録した日の朝。既に登校していた俺は、一時間目の授業中に校内放送で呼び出され、父親の運転する車で病院に向かった。
「おばあちゃんが、危ないかもしれない」
赤信号で停車中、ハンドルを握る父が、前を見たまま助手席に座る俺に言った。呟きのようなその一言に、俺は怒りと驚きが綯い交ぜになったような感覚に襲われた。
どうして平然としている?どうして動揺しない?どうして焦らない?―――どうして運命を呪わない?
しかし、次から次へと溢れ出る言葉を、父の横顔にぶつけることはできなかった。
いつも表情豊かな父の横顔が語っていたのは、それまで俺が見たことのない感情だった。稽古中に見せる鋭い顔も、俺が悪戯した時に見せる険しい顔も、夫婦喧嘩で一方的にやり込められた時に見せる弱々しい顔も、そこにはあった。
その表情がどういう心情によって表現されるものなのか、その時の俺にはわからなかった。
病院到着後すぐ、俺達は個室に通された。そこには既に母親と姉、そして祖父がいた。後から聞いたのだが、その部屋はCCUと呼ばれるらしく、急性機能不全に対応する集中治療室の中でも、特に心臓血管系を主とする循環器系に重篤な疾患を抱える患者が運び込まれるものなのだそうだ。
 ベッドに横たわる祖母は、口から酸素を吸入するための管を入れられ、手術着の合わせられた襟元からは、胸部に貼り付けられた電極から伸びるチューブが出ていた。
 その姿を見た時、俺は父親の表情の意味を知った。
 父は、平然となどしていなかった。同様していないはずがなかった。本当は焦りたかった。―――この時程、運命を恨んだことはなかっただろう。
 父は、ひとり自分自身と戦っていたのだ。現実を認めたくない自分を抑え込み、覚悟を固めるために。逃れようのない事実に直面した時、発狂しないように。
 翌日の早朝、祖母は息を引き取った。これも後に知ったことだが、心筋梗塞の致死率は48時間以内が最も高く、それを乗り切れば救命の可能性も増すらしい。しかし、祖母の直接の死因は、予てより患っていた不整脈との合併症であり、病院に担ぎ込まれた時にはもう手遅れに近かったのだ。
祖母の両の瞼を捲り、眼球にペンライトを当てていた医師は、光を消すと、一同を振り返った。
 その後医師が発した一言は、静寂で満ちていた病室の空気を一変させた。俯いて鼻をすする者。時間をかけて震える息を吐く者。口元を手で隠して部屋を出て行く者。数秒後に廊下から聞こえる嗚咽。
 その中、父親だけは表情を変えなかった。ただ、甲が白くなるほど握られた両の拳が、小刻みに揺れていた。
 そんな父を見て、俺もこぼれそうになる涙を必死に堪えた。なぜだかわからないが、そうしなければならない気がした。
 死は身近であり、唐突であり、何より現実である。
 祖母の急逝は、忘れてはならない教訓を、忘れられない程深く、俺の子供心に刻んだ。
 そして、その事実から目を背けてはいけないことを、俺はあの日の父の横顔から学んだ。

「電子レンジの仕組みを知っていますか?」
突然の問い掛けに、俺は我に返った。ブーン、という間延びした低音が聞こえる。顔を上げると、日本人男性の平均を遥かに上回る高さの背中が目に入った。
俺は今、ラーゲルレーヴ教授の研究室にいる。部屋の中心には長机がふたつ組み合わされ、その上にカセットコンロやコーヒーメーカー、電子レンジが置かれている。窓は奥の壁にのみあり、その下には作業用と思われる机と椅子。両側の壁に設けられた本棚には、天井までぎっしりと本が並べられている。部屋の中には俺と先生の2人きりなので、先生がこちらを見ていなくても、さっきの質問は俺に向けられたもので間違いない。
「え―――?あ、すみません。聞いてませんでした」
しどろもどろの返答に、先生はこちらを振り向いた。顔には苦笑を浮かべている。
「どうやら平塚君には、他人の話に耳を傾けない習性があるようですね」
先生は冗談めかして言うと、「まあ、正直な点は評価できますが」と視線を元に戻した。その先では、箱の中のターンテーブルがゆっくりと回っている。
「電子レンジが物を温める仕組みです。知っていますか?」
「知ってるような、知らないような……」
「作動している電子レンジの中では、特定の周波数帯に属する電磁波が放射されています。この電磁波を、マイクロ波と呼びます」
マイクロ波というのは、聞き覚えがある。確か衛星テレビやアマチュア無線にも利用されているはずだ。
「このマイクロ波は荷電粒子や電気双極子に作用するので、物質の内部に熱が発生します。その熱が外部に広がっていくことにより物質は均一に温まる、というわけです。特に水はマイクロ波をよく吸収するので、電子レンジは水分を多く含む食品の加熱に適しています。一方、ガラスや陶器は電磁波を透過してしまうので、直接加熱されることはありません」
先生が言葉を切るのと同時に、チン、と調理完了を知らせるベルが鳴った。先生はレンジの中からマグカップを取り出すと、パイプ椅子に座っている俺に差し出した。
「ホットミルクです。心が落ち着きますよ」
礼を言って受け取る。なるほど、中の牛乳からは湯気が立っているが、陶器のカップを包む掌に伝わってくるのは心地良い温かみだ。
 俺がカップの中身に口を着けたのを確認すると、先生は窓辺の椅子に腰を下ろした。アームレストに肘を置くと、話を続ける。
「ところで、殻のままの卵を電子レンジで加熱すると、どうなると思いますか?」
「確か、爆発……」
答えかけて、言葉が途切れる。爆発という単語が引き金となり、数十分前に目撃した光景が蘇った。映像は一瞬で消失し、表面に膜が張った白色の液体が視野に帰って来る。しかし、手の中にあるはずの温もりは戻らない。
「そう、爆発します」
先生は俺の語尾を継ぐと、説明を始める。
「マイクロ波を照射された卵は中心部から均等に熱せられることにより、まず黄身が沸騰を始めます。黄身は白身と殻に包まれているので、外気よりも高圧となり、沸点が上昇します。やがて黄身は熱膨張による体積の増加に伴い、白身と殻を押し破って外気に触れる。この瞬間に急激な減圧が起きます。すると沸点が下がり、黄身に含まれていた水分が一気に蒸発、気化します。結果、平衡破綻型の水蒸気爆発が発生する、というわけです
彼女の能力も、同じ特性なのでしょう」
最後の一言に、俺は勢いよく顔を上げる。先生は、真剣な面持ちでこちらを向いていた。
「どういう、ことですか?」
「先程の話、卵を人間の頭に置き換えてみて下さい」
卵が頭と言うことは、黄身は脳髄、白身は頭蓋骨、殻は頭皮ということになる。つまり、沸騰した脳髄が膨張し、頭蓋骨と頭皮を破ったら頭は爆発する、ということか。
 もしもミカの頭の中でそんな現象が起きていたら、説明がつくことがいくつかある。茹で上がったように紅潮していた顔も、体液から上っていた蒸気も、頭の内部から発生した熱が原因だったのならば。
だがしかし、
「人間の脳が、自然に沸騰することはありえない」
俺は、自分に言い聞かせるように呟いた。結果が理屈に適っていても、原因は非合理もいいところだ。
「そう、日常生活において、人間の脳が沸騰するほどの高温にさらされることはありません」
先生も自説の根本的な穴を自ら指摘した。
「ですが―――」
しかしそれは、
「彼女にならば―――」
持論の否定ではなく、
「そういう状況を生み出すことができる」
仮説を真理に導くための一手だったのだ。

「10年前、この世界は本当の空を失いました」
この一言から始まる独白が、俺に運命を呪うことを教えようとは、その時の俺は知る由がなかった。

誰が為に君は笑う・・後編A

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