3限以降の授業を全てサボり、俺は先生の研究室に向かった。
「きっと君を庇ったのでしょう」
それが先生の見解だった。昨夜の事件を目撃されていたことを見抜き、その上で俺を巻き込まないよう白を切ったのだと言う。
「警告の意味も込めているのでしょうね。自分にかかわることで、君の身に危険が及ぶと考えたのでしょう。健気なものです。ゼミのクラスメイトである以上、週に1度は必ず顔を合わせることになるというのに。あるいは、もう君の前に姿を現すつもりがないのかもしれません。そうなると、ますます時間がありません」
 研究室を後にした俺は、ふらふらとキャンパス内をうろついた。各時限が終わるたびに、講義棟から吐き出される学生達で通路は溢れ返った。その波に時には乗り、時には抗いながら、当てもなく漂う。意識はしていなかったが、視線は常に綾瀬さんの姿を探していた。
そうやってさ迷うように歩いていると、いつのまにか日が暮れかけていた。
 部活は体調不良を装って休むことにした。大会が近いということもあり、欠席願いはすんなりと受け入れられた。元々部活を休むことは滅多になかったので、よほど体調が悪いと思われたのだろう。監督や部員達からたくさんの心配の声をかけられた。そのひとつひとつがチクチクと胸を刺し、俺は逃げるように剣道場を去った。
 そして今、俺はナックル家にいる。いつもなら部活中の時間帯なので食欲はあまりなかったのだが、一度帰宅してしまうとまた出歩く気にはなりそうになかったので、帰り道の途中にあるこの店に寄ることにした。
 例の如く、客は俺ひとり。その俺もさっきから箸が進まず、スープに映る自分の顔をぼんやりと眺めていた。頭の中では街頭ビジョンで上映されるコマーシャルのように、昼間の場面が何度も繰り返し流れている。
 ――――――あの、どこかでお会いしていたらすみません
 ――――――私、本当にあなたのこと覚えていなくて……
それまで見たことのなかった表情。眉を顰めるとまではいかないまでも、こちらを直視しない瞳には、微かとは言えない不審の色が浮かんでいた。いつも朗らかな綾瀬さんが警戒心を覗かせただけでも、受けるショックは言葉を失うに値した。
とても嘘を吐いているようには見えなかった。
それに彼女のことだ。他人を傷付けるようなことを進んでするだろうか?例えそれが相手のためを思ってのことだとしても、彼女なら他の方法を選ぶのではないか?
ならば記憶喪失?先生の言っていた契約者や特殊能力と何か関係があるのだろうか?
それとも、ただ俺に人を見る目がないだけなのだろうか?
決して答えの出ない疑問の前に、俺は推測の泥沼にはまっていた。だからだろう。いつの間にか店内に人が増えていたことにも、声を掛けられるまで気付かなかった。
「チェスを知っているかい?」
顔を上げると、見覚えのある女性が座っていた。昨日この店を飛び出した時ぶつかりそうになった客だ。女性は今日も全身を黒でコーディネートしている。屋内でも帽子は外さないらしく、ベールに覆われた顔はよく見えない。
女性の他にもうひとり、ショートカットの子供が座っている。少年とも少女とも見て取ることができる、西洋風の顔立ち。目の前に置いた分厚い本の上に片手を乗せ、眠たげな目は、瞬きもせずに視線を正面に送り続けている。
ふたりは入口の近く、L字の短いほうのカウンターに並んで座っている。長いほうの真ん中にいる俺との距離は5mといったところか。
女性は俺が反応したのを見ると、答えを待たずに話を続けた。
「盤を戦場に見立て、兵士を表象する駒を取り合うゲームなんだが、古代インドのチャトランガを起源としている点では、将棋の親戚とも言えなくはない。でもね、それらふたつの遊戯には決定的な差異があるんだ。何だかわかるかい?」
再び女性は俺に質問を投げ掛ける。しかし、これも返答は求めていないらしい。俺に考える間も与えないまま話を先に進める。
「将棋では取った駒を自軍に加えることができるが、チェスではそれができないのだよ。将棋において駒を取ることは敵勢力の削減と味方の拡大を意味するが、チェスでは敵兵の殺害以外の意味を有しないというわけだ」
興に乗ったのか、女性は熱を込めて主張を展開する。
「そもそも盤上で繰り広げられてるのは子供の喧嘩や繁華街のいざこざじゃない。紛れもない戦争なんだ。自分を殺そうとしている人間を生け捕りにしたり、ましてや味方になるよう説得を試みるなんて、絵空事にも程がある。人間は、自分に殺意を向けた相手を簡単に許せる程、慈悲深くはできていないのだからね。
私はチェスというゲームに陶酔する人間のひとりなんだが、それはこのルールに魅了されたからだと言っていい」
知らぬ間に、俺は女性の話に聞き入っていた。俺にすがりつく先生の姿も、逃げるように通り過ぎる綾瀬さんの横顔も、全てが頭の中から消えていた。代わりに現れたのは、不鮮明ながら既視感のあるイメージ。本能が意識の奥底にねじ込んだ断片。まるで女性の発する言葉のひとつひとつが俺の脳内にあるブラックボックスに傷を付け、そこから漏れ出す記憶の膿がじわりじわりと形を成していくかのようだ。
 そして、女性は封印を破る。
「殺し合いを疑似体験し、生と死の狭間を堪能できるなんて、至上の悦楽だと思わないかい?」
さも当然のように俺に同意を促す女性は、心から愉快げだった。黒い布に隠れた表情は判然としていなかったのに、話し終えると同時にニヤリと笑ったのだけは、なぜかはっきりとわかった。
その瞬間、決壊した密閉空間から大量の映像が頭の中に雪崩れ込んで来た。

狂乱する友人。
一瞬で飛散した頭部。
肉と骨の欠片。
横たわる死体。
吹き出る体液。
空気を濁らせる赤い霧。

 それから――――――

 そこまで思い出して、俺の意識は現在に引き戻された。急いで席を立つ。水の入ったコップが手に当たり倒してしまったが、それどころではない。店の外に駆け出ると、直ぐ側の電柱の根元に崩れるように倒れ込む。
そして、嘔吐した。胃の中が空になり、胃液しか出なくなっても逆流は止まらない。
見てしまったのだ。
常識がゴミ屑になる瞬間を。
気が付いてしまったのだ。
自分が住むべきでない領域に足を踏み入れてしまったことを。
狂っている。
何もかもが出鱈目だ。
壊れている。
誰も彼もが間違っている。
なぜ、彼女は肉塊を見下ろせる?
なぜ、彼は俺に手助けを求める?

なぜ、俺は全てを受け入れていたんだ?

わからない、わからない、わからない――――――

いや、わかる。

それは、目を逸らしていたからだ。
それは、疑わなかったからだ。
それは、知ろうとしなかったからだ。

だったら――――――

俺は口の中に残っていた酸を吐き出し、手の甲で口元を拭った。
そうすることで、心の中に巣くっていた迷いやわだかまりを、全て吹っ切れる気がした。
深呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと立ち上がる。
体はまだよろめくが、精神に揺るぎはもうなかった。
誰が為に君は笑う・・後編E

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