縦横4m四方の密室。中心には、部屋の面積の半分を占領するかのように据えられた、ふたつの長机。入口から見て左右の壁を覆い隠す本棚。その中を余すことなく埋め尽くす無数の分厚い書籍。奥の壁には、唯一設けられた窓、そして作業用の机と椅子が一式。日中はそこから眩しい程の日射しを得ることができるが、今机上を照らすのは、デスクライトの人工的な光。
 時刻は午後の9時。窓の外には、暗闇と静寂。
 慣れない者ならば圧迫感で落ち着きを失いそうな空間で、彼はひとり机に向かっている。手元には一冊のファイル。アルバムのような作りのそれは、全てのページにビニル製のポケットが取り付けられている。
その中の1ページに、彼は長いこと視線を落としていた。そのページのポケットには、左上に3cm角の空白が意図的に残された上質紙が入っている。空白には「No Photo Available」の文字。残りのスペースには、身長・体重、髪や瞳の色といった身体的特徴をはじめ、国籍、使用言語といった、とある人物のものと思われるありとあらゆるデータがワープロの文字でびっしりと書き込まれている。
彼はそのページの上に、端から端まで視線を這わせる。そしてもう何度目になるかもわからない読み返しを終えると、にたりと頬をゆるめた。
間違いない。あの戦女神(ヴァルキュリア)が、私の命を狙っている!
彼は確信を深める。途端、全身がざわざわと粟立つのを感じた。しかしそれは、死への恐怖や事態に対する危機感からではない。
まさかこんな大物が身近に潜んでいようとは。
彼は興奮していたのである。もしくは、歓喜に打ち震えていたと言ってもいいだろう。想定の範囲外から転がり込んできたこの好機に、彼は精神の高揚を覚えているのだ。それはもう、自分の性質を疑うほどに。
これで、あのいけ好かない紳士気取りのイギリス人に一泡吹かせてやることができる。
昨晩の内に、彼の計画は一変した。そもそも何年もの間あの女に固執していた理由は、自尊心を傷付けられたことに対する意趣返しの意味合いが大きかった。汚名を返上する方法ならいくらでもある。手土産としての価値では多少劣るかもしれないが、与える衝撃の点ではむしろ彼女のほうが大きいかもしれない。
何より、圧倒的に合理的だ。人口一千万を優に超すこの東京で、あの女を見付け出す労力は並大抵ではない。現に、これまで手にした情報はどれも、この街のどこかにあの女が潜んでいるというところで終わっている。一方、戦乙女(ヴァルキュリア)は既に手の届く距離にいる。
「飛んで火に入る―――、か」
彼は声を上げて笑い出しそうになるのを堪えながら思う。
 この国の文学になど興味はなかった。そんな私が、まさか言い古された慣用句に心踊らされるとは。
 彼は上半身を揺らしながら、クックと喉を鳴らした。
 その時、背後のドアをノックする音が聞こえた。彼は瞬間ビクリと背筋を伸ばしたが、「平塚です」という声に、舌打ちしそうになりながら心身を弛緩させた。気付かぬ内に荒くなっていた息を整えつつファイルを閉じる。そして音を立てずに机の引出しを開けると、書類の山の中に隠した。その間にもう一度、さっきよりも少し強い力でドアが叩かれる。
「いらっしゃらないのですか?」
明らかに語気が鋭い。何事であろうか?時間も時間だ。急を要する用件であることだけは確かなようだ。
計画がうまくいったのか、あるいは・・・・・・。
「今出ます」
そう応えると、彼―――アルフレッド・ラーゲルレーヴは席を立った。
誰が為に君は笑う・・後編G

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