二度目のノックで、聞き慣れた声が返ってきた。見込み通りだったにもかかわらず、吉平は少なからず後悔の念を覚えた。各教室や研究室とは違い、廊下には空調の設備がない。生温い空気の中で、吉平はじっと目の前のドアが開くのを待った。じんわりと汗ばんだ掌が、長い筒状の袋を握り締めた。
 ドアが開く。
「お待たせしてすみません。どうしても手が離せない状態だったもので」
ラーゲルレーヴは心から申し訳なさそうな顔で謝罪する。そうしながら、人好きのする眼差しが、ちらりと吉平の周囲を確認する。
「おひとりですか?」
「ええ。あの、すみません、夜分遅くに」
「構いませんよ。さあ、どうぞ中へ」
ラーゲルレーヴは半身をずらし、吉平を研究室へと招き入れる。それを短い単語で辞退して、吉平は、
「確認したいことがあって来ました」
「確認したいこと?」
「ええ、率直にうかがいます」
そして吉平はそれまで伏せていた視線を上げ、ぐっとラーゲルレーヴの瞳を見据えた。
「先生、あなたはいったい何者なんですか?」
訪れる沈黙。しかしそれも数瞬の間で、
「あなたが知っている通りの人間ですよ」
ラーゲルレーヴは微笑を保ったまま応える。
「西洋史の教師としてこの大学に身を隠していますが、本当はイギリスの諜報・・・・・・」
「そうじゃない」
吉平はぴしゃりと遮る。
「そんなの、信じられませんよ。そう――――――」
「信じられるわけなかった」と吉平は再び視線を足元に落とす。
「教えて下さい。あなたがそんな立場の人間なら、どうして俺にそんな重大な秘密を打ち明けたのかを。どうして俺に協力を仰いのかを。どうして組織の仲間を呼ばないのかを。
それにね、先生。あいつが、ミカが言ってたんです」
微かに震える声で、吉平は続ける。
「契約者は4人だって」
それだけ言うと、吉平は口を閉ざした。それは、耳を傾けるに値する返答だけを待つという、意思の表れだった。
「そうですか」ラーゲルレーヴは溜息混じりに呟く。「彼がそんなことを」
数秒間のしじま。
 それに終止符を打ったのは、嘲笑の鼻息だった。含み笑いはやがて声になり、遂に哄笑となった。廊下に響き渡る自分の笑い声が消えるのを待ち、ラーゲルレーヴは口を開く。
「どうやらおとぎ話はここまでのようです」
その言葉を聞き終える前に、吉平は素早く後方に一歩跳ねる。そして左手に持っていた袋を逆さにすると、中から滑り落ちるものを右手でつかんだ。そのまま袋を投げ捨てる。左右の足を前後にずらし、片手で握っていたものを両手持ちに変える。先端がラーゲルレーヴの喉に向けられたそれは、竹刀。
中段の構え。剣道において、最も一般的な構えである。
「綾瀬さんをどうするつもりだ?」
「それはもちろん、死んでもらうしかないでしょうね」
何の躊躇もない即答。それは吉平にとって、予期した解答のひとつであり、同時に外れてほしい結末でもあった。
それならば――――――
吉平は音を立てて右足を踏み込む。一瞬で間合いを詰め、竹刀を振りかざす。そしてラーゲルレーヴの額目がけ、迷うことなく振り下ろした。ぶんと風を切るそれは、しかし急所をとらえる前に止まった。
「え?」
思わず情けない声がもれる。予想だにしない手応え。まるで幾重にも重ねられた羽毛布団の山に叩き込んだような感触。
渾身の力で振り下ろした竹刀の先は、ラーゲルレーヴの左手に収まっていた。
困惑の色を隠せない吉平とは対照的に、目元まで左手に隠れたラーゲルレーヴの表情は穏やかなままである。吉平がよく見ると、ラーゲルレーヴの全身が青白く輝いている。
あの時と同じだ。
「驚くことはありません。私は契約者なのだから」
吉平に投げ掛ける口調はまさに教え子を諭す教師のそれだった。
「私の能力は、『衝撃のコントール』。この身に受ける衝撃であれば、例えそれが隕石の直撃であろうとも、限りなく無に近付けることができる。よって私には、いかなる打撃も通じない。そして―――」
そこで、ラーゲルレーヴは一旦言葉を切る。それから空いていた右手で拳をつくると、流れるような動作でそれを吉平の腹に叩き込んだ。
途端、吉平の足が床を離れる。浮いた体は2m程の幅の廊下を飛び越え、人工大理石の壁に突き刺さった。
「あ、がは!」
吉平の口から大量の血を吐き出され、散らばる壁の破片を深紅に染めた。
「平凡なパンチが、大型車と正面衝突した際の衝撃に等しい威力になる」
そう言うと、ラーゲルレーヴは左手に残っていた竹刀を離した。そして乾いた音を立てて跳ねるそれを、路上の小石をそうするかのように蹴飛ばす。竹刀がバラバラに砕け散ると、ラーゲルレーヴは左手を下した。ふっと、瞳の色が赤からグレーに戻る。
「『スウェーデンの、小さい、小さい町の町はずれに、草ぼうぼうの古い庭がありました。』この一文から始まる物語のタイトルを答えよ」
唐突に、ラーゲルレーヴが試験官のもの言いになる。吉平は答えない。否、答えられない。当然だ。止めどなく込み上がってくる血液に呼吸を妨げられ、一言発することすら困難なのだ。それを知りつつも、ラーゲルレーヴは、
「おや?わかりませんか。今授業で扱っている作品ですよ」
「やはり私の話など聞いていないようですね」と苦笑とも冷笑ともとれる表情を浮かべた。
「失礼。これが私の対価なもので」
微笑みを貼り付けたまま、ラーゲルレーヴは廊下に踏み出す。
「能力を使用した後は、必ず対価を支払わないといけない。物語の一節を諳んじること。それが私の対価です」
「因みに」とラーゲルレーヴは続ける。
「ヤンソン君の対価は絵を描くことでした。だからと言って、あんなにでかでかと落書きを残す必要はなかったと思うのですが」
そこまで言うとラーゲルレーヴは歩みを止め、だらりと投げ出された吉平の足の側に立った。
「彼は不運でした。能力に目覚めたばかりの新兵が、戦場の女神に敵うわけがない。しかし私の命を狙い、この大学に潜伏しているであろう暗殺者を炙り出すことが彼の役目でしたから、そういう意味では務めを全うしたと言ってもいい。実に捨て駒らしい最期でした。合格。
一方、君は落第だ」
ラーゲルレーヴは膝を折り、壁にもたれかかる吉平と目線を合わせた。その表情も、口振りも、物腰も、普段の講義で見せるものと何ら変わらない。
血塗られた話題には、あまりに不釣り合いな落ち着き。
血塗れの修羅場には、あまりに場違いな余裕。
まるで試験の答え合わせをするかのように、ラーゲルレーヴは独白を続ける。
「指示通りの行動にとどめておけばよいものを、余計な疑念を抱くからこういうことになる。感情は任務遂行の妨げにしかならない。これだから人間は御し難い」
「契約者だって・・・人間・・・だ」
「それは違う」
血液と共に流れ出した反論は、土足で踏みにじられる。
「それは違いますよ、平塚君。それは致命的な誤解であり、無垢が生んだ勘違いだ。契約者は人間ではない。契約者にはね、平塚君、およそ感情と呼べるものが欠落しているのですよ。私達契約者には、一般社会の常識や良識の類は通用しない。もちろん、良心がないのだから呵責も感じない。君も見たでしょう。ヤンソン君を殺した時の、綾瀬君のあの振る舞いを」
ラーゲルレーヴは吉平の視界から顔を外し、口を耳に近付ける。そして囁くように、しかしはっきりと真実を叩き付ける。
「君がその身を賭して守ろうとした存在は、最早人間ではなかった。君が愛したは・・・・・・」
「やめろ!」
吉平の怒号が空気を震わせた。音が鳴る程きつく歯を食いしばり、大きく肩を揺らす。しかしそれ以上は何かを口にする余力がなかった。ただ、ぐう、と血を吐く。
 ラーゲルレーヴは立ち上がり、吉平を見下ろす。その双眸に、先程まで宿っていた穏やかさはもうない。道端に横たわる浮浪者を見るかのような、冷めた視線を吉平に注ぐ。
「じゃあ―――」
すっと、ラーゲルレーヴの右手が後方に引かれる。瞳孔に朱がさし全身が微光に包まれる。
そして、放たれる最期宣告。
「死ね」
誰が為に君は笑う・・前編H

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