ラーゲルレーヴが片手を握る。それを吉平は、焦点の定まらない目で見上げる。
 果して、自分の選択は正しかったのだろうか?
 例えば、今目前で自分にとどめを刺そうとしているこの人物の言葉を鵜呑みにし、綾瀬さんの説得を続けていたら。
 例えば、あの時目前で起きた惨殺を受け入れず、身を置くべき領域と置かざるべき領域の境界に気付かなければ。
 自分はこんな窮地に陥らなかっただろうか?
そんなことはわからない。
知ってはならないことを知り過ぎた自分は、この機でなくともいずれ殺されていたかもしれない。
それは盲信していた教師の手にとってかもしれないし、あるいは他の、例えば最愛の人の手によってかもしれない。
そうなれば、自分はおそらく、いやきっと後悔していただろう。
生と、それの対である死。それら自体には正解も不正解もない。
正誤が問われるとしたら、それは概念ではなく実態。
つまり生き方であり、そして死に方だ。
だとすると、自分の生き方は少なくとも間違ってはいなかった、と思う。
では、死に方は・・・・・・?
「死ね」
ラーゲルレーヴの右腕に力が入るのがわかった。自問には、答えられそうになかった。
 その時、ラーゲルレーヴの動きがぴたりと止まった。ばっと顔を左に向けると、目を見開く。そしてすぐ、研究室の中に身を翻した。
 吉平も、ほとんど眼球だけでそこを見る。
息を呑んだ。
10m程先の暗がり。そこに、綾瀬青葉が立っていた。闇に浮かび上がる顔は、あの時のように表情を持たない。正面に送られる視線は、何をとらえようともしない。ただ前に、ゆっくりと歩き出す。
「はは、ははは!」
研究室の中から高笑いが聞こえる。
「そうか、やはり来たか!」
狙い通りと言いたげな口調には、興奮と焦燥が入り混じっている。
「これでようやく、私は戻ることができる」
吉平の位置からでは、ラーゲルレーヴの動向を視認することができない。それでも、ラーゲルレーヴが何か良からぬことを図っていると、吉平には感じ取れた。
「綾瀬、さん・・・来ちゃ・・・うぐっ!」
続く言葉は吐血に阻まれる。綾瀬青葉は歩みを止めない。
「私はあそこに戻りたい、戻りたい、戻りたい、戻りたい、戻りたい、戻りたい・・・・・・」
見えない契約者は、譫言のように繰り返す。綾瀬青葉は歩みを止めない。
「戻らなくてはならない。だから―――」
刹那の静寂。木霊する、綾瀬青葉の靴音。そして、
「貴様を殺し、私はMI6に戻る!」
喊声と共に、砕け飛ぶ石の壁。躍り出る肢体。研究室を突き破ったラーゲルレーヴは、綾瀬青葉の横手から跳びかかった。ラーゲルレーヴの拳が青葉の側頭部をとらえる。鈍い音。一連の映像が、まるでスローモーションのように吉平の網膜を流れる。
そして青葉の体は壁に埋まる。今吉平に見えるのは、力なく投げ出された白い四肢と、それを伝う紅の液体。聞こえるのは、ラーゲルレーヴの荒い息遣い。
「やった、やった、やったんだ、やったんだ、私は」
青葉を見下ろしていたラーゲルレーヴは、弾む息で呟く。それから、
「やったぞ!」
裏返った声は奇声に近い。爛々と目を輝かせる様に柔和な教師の面影はなく、小刻みに肩を震わせる姿は最早狂人そのものだった。
ラーゲルレーヴは笑う。耳を覆いたくなる奇怪な笑い声は、喉が掠れ、息が続かなくなるまで続いた。
「ああ・・・・・・」
肩で息をしながら、ラーゲルレーヴは我に帰る。
「最高の気分だ」
ラーゲルレーヴは吉平に目を向ける。
「君にもこの気分を味わわせてあげよう」
不気味な笑みを浮かべ、ラーゲルレーヴが近付いてくる。
「愛する人の側に行かせて・・・・・・」
吉平まで後数歩のところで、ラーゲルレーヴの足が止まった。両の瞳が揺れ、半開きの口から不規則な呼吸音がもれる。
「そんな馬鹿な・・・そんなことが・・・」
ラーゲルレーヴは、ぎこちなく振り返る。
 青葉の手足が、青い光をまとっていた。それは紛うことなき、能力発動の証。疑いようのない、生の輝き。
「何故だ、何故!」
ラーゲルレーヴは定まらない足取りで後退る。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ」
よろめく体を支え切れず膝が砕けたかのように、ラーゲルレーヴは尻餅をついた。頭を抱え、背を弓なりに曲げる。
「死にたくない、私は、私はああああああああああああああああああああああああ――――――!」
おぞましくも空しい、断末魔が響き渡った。
誰が為に君は笑う・・前編I

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