また血を吐いた。どす黒く変色した床に、また赤が重ねられる。
これが最後かもしれないな。
逆流する体液は、徐々に量を減らしていく。
消化器系でも呼吸器系でも、体中の血を搾り出す前にはその機能を停止させるだろう。
その時が、文字通り最期。
吉平は、仰向けで白目を剝いている元教師から目を離す。拳を床に垂らした、真っ白な腕が見えてくる。
手を伸ばしても届かない。這いずろうにも、体力が自重に及ばない。それでも、どうしても、と意思が肉体を煽動する。ぴくりと、吉平の指が動く。
「やめておけ」
その矢先、聞き覚えのある声が吉平の耳に飛び込んできた。視線を少し上げる。すると、青葉の向こう側に男がひとり立っているのが見えた。
濁った瞳で吉平を見下ろしているのは、よく見知った男――――――ラーメン屋のアルバイトだった。
「動けば死期を早める」
ぞんざいにそれだけ言うと、男は吉平から視線を切り、青葉の顔を覗き込むようにして身を屈めた。そして額付近に触れた片手を、ゆっくりと下す。
その動作が何を意味するのか、吉平の脳は理解を拒まなかった。
 それから男は、青葉の握られた左手を解き始めた。一本一本の指を、果実の外皮を剝くかのように解いていく。すると、掌の上に白色の平たい何かがあるのが、吉平には見えた。男はそれを摘み上げる。
それは、折りたたまれた紙切れだった。男が両手で広げると、それは葉書程の大きさになった。
男はそれにさらりと目を通すと、立ち上がり、今度は吉平の足元に歩み寄った。そして、紙切れを吉平の股の部分に投げ落とす。
「記憶を失うこと。それが栗(リースー)―――綾瀬青葉の対価だった」
吉平の頭上から、ぶっきらぼうな声が降ってくる。それを、吉平は紙切れに目を落としながら聞く。
「記憶を失うと言っても、それは完全な喪失ではなく、断片的な、記憶の帯に穴が開くようなものだった」
男の口調には、何の感慨も滲まない。ひたすら淡々と、無感情に続ける。
「とは言え、一度失った記憶は、二度と思い出すことができない。だから、コードネームやチームのメンバー、任務内容など、忘れてはならないことをメモに書き貯め、常に携帯していた。それが、そのメモだ」
確かに、何本もの折り目が走るその紙切れには、あらゆる種類の単語が、手書きで隙間なく記されている。しかし、それらのほぼ全てが吉平の目には入らなかった。なぜなら、吉平の目は、ある一点に釘付けになっていたからである。
 ――――――
「それの意味するところは、俺にもわからない。こいつが契約者であることを鑑みれば、ラーゲルレーヴに利用されたおまえをマークするため、と考えるのが普通だが―――」
「違う」
自分でも驚くほど自然に、否定が言葉になっていた。
根拠など、何もない。
説明など、しようがない。
しかしそれでも、吉平にはそう思わずにはいられなかった。
図書館で見せたあれが演技なら、そう信じずにはいられなかった。

綾瀬さんが、守ってくれた――――――

吉平は、震える右手で紙切れに触れた。そして、血に染まりつつある紙切れに、ぽたりと透明な水滴を落とした。体に残る水分が、次から次へとこぼれ落ちる。滲み広がる、赤。
「このままなら、おまえは死ぬかもしれないし、助かるかもしれない。」
しばらく黙っていた男が、また口を開いた。
「しかし助かったとして、おまえの中の綾瀬青葉に関する記憶は全て削除される。契約者に関する情報を一般人が所持することはできない」
「俺は・・・綾瀬さんを・・・忘れたくなんて・・・ない」
言うまでもなく、吉平の意識は朦朧としていた。流れ込む事実とわき上がる感情が入り交じり、理性は混濁していた。
しかし口を衝いたのは、偽らざる本心だけだった。
「それなら、俺に着いて来い」
男は断言する。
「俺が、おまえの望みを叶えてやる」

吉平は、返事をする前に意識を手放していた。
男はそれを、無言の同意と解釈した。

その男のコードネームは無名(ウーミン)。

二つ名は、「名も無きエージェント」。

[TOPへ]
[カスタマイズ]




©フォレストページ