住宅地の一画にある小さなラーメン屋。店内にはカウンター席しかなく、10人も入れば満席になってしまう。と言っても、この店を利用するようになってからの数ヶ月間、満席になっているところなど見たことがないのだが。
従業員は中年一歩手前の主人だけ。なんでも、主人は昔ホウムラン軒とかいう中華料理屋で修業していたそうで、ナックル家というこの店の名前も、おそらくは野球に因んだものなのだろう。
普段なら髭面の主人と顔を突き合わせての食事なのだが、今日は違う。主人がハワイ旅行に行ったのだ。商店街の福引が当たったのだそうで、この間俺が夕飯を食べている時、飛行機のチケットを見せびらかされたからよく覚えている。代わりに、ここ数日は特別に雇ったらしいアルバイトの男がひとりで切り盛りしている。歳は20代後半だろうか。黒の短髪が爽やかで、常に無精髭の主人には縁遠い清潔感がある。腕はかなりのもので、出されるラーメンはいつもよりもおいしい気がする。
L字型に並んだカウンター席のひとつに座り、俺―――平塚吉平はラーメンを食べていた。
昼時だというのに俺の他に客はいない。静かな店内にはテレビの音声だけが流れている。壁に設けられた棚の上のテレビではワイドショーが放送されており、俺の目はさっきから画面に釘付けになっていた。なんでも昨夜遅く、木の枝に貫かれた男の死体が発見されたそうだ。その木の枝が民家の2階程の高さにあると言うから驚きで、どう考えても自殺ではないらしく、他殺だとしても方法に見当がつかない。死体がぶら下がっていた木は、老夫婦がふたりだけで暮らす家の庭にあるそうで、隣は空き地になっている。そこで雑草を倒して作られた、直径5m弱の輪が発見されたと言うからますます驚きだ。さらに、民家と空き地を隔てるコンクリート製の塀一面に、昨日までなかった落書きがされているのが見つかっており、警察では何らかのヒントになると踏んでいるようだ。しかし、そんな捜査のことなどは、コメンテーターの誰一人として触れない。一方、死体の第一発見である老婆の、「発見の直前突風が吹いていた」という証言が重要な手掛かりとして取り上げられ、「UFOに乗ってやって来た宇宙人の仕業では?ミステリー・サークルは、宇宙人が残したメッセージではないか?」などと、この手の番組にありがちな議論で盛り上がっている。
「宇宙人なんて、本当にいるんですかね?」
テレビに目を向けたまま、俺は調理場の椅子に腰かけているバイトに質問を投げ掛けてみた。いや、これは質問ではないか。なぜなら、宇宙人の存在など誰も立証できていないことは当然ながら知っているわけで、だから明確な解答など全く期待していないからだ。となると、この呟きはただ単純に興味が口をついたにすぎない。ぼうっと床を眺めていたバイトは、ワンテンポ遅れてから、「さあ、僕は見たことありませんね……」と困ったように答えた。
「ですよね、俺もです」
予定調和のような会話を終え、ふと画面の隅に目をやると、デジタル時計が12時50分を表示していた。
「やっば!」
3限はゼミで、13時からだ。この授業にだけは、とある理由から何としても遅刻するわけにはいかない。
歩いていては間に合わない。これは久しぶりにダッシュか?
 俺はカウンターの上の器を両手で持ち、すっかり冷めてしまったスープを一気に飲み干す。そしてポケットから財布を取り出し、小銭を確認した。……ない。一枚も無い。じゃあ札は……ない!?
そうか!昨日の飲み会ですっからかんになってたんだ。くそ、調子乗って二次会になんか行かなければよかった。
「いいですよ」
逆さまにした財布を覗き込んでいる俺に、バイトが涼しげな笑みを向ける。
「お代は今度。またお越し下さい」
「すみません!ご馳走様でした!」
急いで椅子を下り、カウンターに置いてある鞄を掴む。
「ありがとうございましたー」
バイトの爽やかな声に送られ、俺は店を飛び出そうとした。ところが、扉を開けたところで入れ替わりに入って来た客にぶつかりそうになり、慌てて避ける。
客は女性で、性別のわりに身長は高め。つばの広い帽子を被り、両手には革の手袋。服装はブラウスにロングスカートで、ヒールの高いブーツを履いている。その全てが黒で統一されており、なおかつシースルーのベールで顔を隠しているのだから、まるで喪服だ。ラーメン屋で麺をすするより、葬式会場で鼻をすするほうが似合いそうだなどと考えるのは、少し不謹慎だろうが。
「すみません!」
軽く頭を下げ、俺は女性の脇を走り去る。
「いいえ」
女性は俺を一瞥し、小さく笑ったようだった。
誰が為に君は笑う・・前編B

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