俺、平塚吉平は城東大学文学部の2年生である。ゼミでは西洋史、特に文学の歴史について学んでいる。
そして今まさに、そのゼミの最中である。
教室内には長机がコの字に配置され、20人弱の学生達がぐるりと座っている。
教室の前方、俺から見て左手にある黒板で、長い靴下を穿いた少女の物語について解説しているのが、このゼミの担任であるアルフレッド・ラーゲルレーヴ教授。ご自身がスウェーデン出身ということもあり、授業では主に北欧の文学が扱われる。物腰の穏やかな、常に微笑を湛えているような紳士で、“おじ様好き”の女生徒達から絶大な支持を得ている。
机に頬杖を突いて教授の講義を聞き流しながら、何気なく、いや、あくまで何気なくを装って、ちらりと正面の席に目をやる。そこに座っているのは、俺とは違い、真剣な面持ちで教授の話に聞き入っている女の子。
かわいい。かわいすぎる。
彼女、綾瀬青葉さんはちょうど一週間前に転入して来たばかり。生まれた時から外国育ちで、両親は日本人ながら本人の国籍は違うらしい。アメリカの大学に通っていたのだが、短期の交換留学制度を利用して、ここに来たのだそうだ。
それにしてもかわいいな。
 腰まで届きそうなロングヘアは栗色のストレートで、艶やかな光沢を帯びている。肌は透き通るように白く、一直線に切り揃えられた前髪と相まって、まるで磁器でできた人形のような、何とも高貴な雰囲気を醸し出している。
 そう、俺は綾瀬さんに恋をしている。いわゆる一目惚れというやつだ。「自分のルーツであるこの国を、ずっと見てみたいと思っていました」と目を輝かせていた自己紹介。わかっている。あの時見せた笑顔が、決して俺だけに向けられたものではないことくらい。だが、仕方がないのだ。教授に連れられて教室に入って来た綾瀬さんを一目見た瞬間に、俺の心は彼女に完全に奪われていたのだから。
 そしてラーメン屋から全力疾走して来たわけ、この講義に遅刻できない理由も、綾瀬さんに関係している。授業中の教室におずおずと入って行く姿など、かっこ悪くて愛しい人に見せられたものじゃない。大教室ならまだしも、ゼミで使用する教室はあまりに小規模で、ドアを開ければ気付かない者などいないのだ。
 不意に、綾瀬さんがこちらを見た。俺の視線に気が付いたのだ。
しまった!つい見惚れてしまっていた!
俺と目が合うと、首を傾げながらも綾瀬さんはにっこりと頬をゆるめた。瞬間、急速に体が熱くなっていく。自分でも赤くなっているのがわかる顔で、何とか笑みを返そうとする。
数瞬の後、綾瀬さんはまた顔を前方に戻した。
俺はちゃんと笑えていただろうか。
その時、右腕を肘で小突かれた。見ると、隣に座る男がニヤニヤと薄笑いを浮かべていた。
彼の名前は、ミカ・ヤンソン。フィンランドからの留学生である。髪は天然の金髪で、瞳はスカイブルー。ラーゲルレーヴ教授がハンサムなら、ミカはイケメンといったところか。同性の俺から見ても、なかなか整った顔立ちをしていると思う。その美男子が、何とも癇に障る表情を俺に見せていた。
「てっめ……」
「平塚君」
小声で毒突いたつもりだったが、教授の耳には入ってしまったらしい。ちょうど解説の切れ目だったのが災いした。教授は、穏やかな口調で続ける。
「今は授業中ですよ。せめて、この少女よりはお行儀良くして下さい」
講義の題材として取り上げている物語の登場人物を引き合いにした忠告は、何とも教授らしいウィットに富んだものだった。
「すみません、でした」
クスクスと、教室のあちらこちらから小さな笑い声が聞こえてくる。俺は体を縮こませ、俯いた。とてもじゃないが、顔を上げることなどできない。もし、万が一綾瀬さんまでもが笑っていたら、立ち直ることなどできないからだ。
誰が為に君は笑う・・前編C

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