学食を後にした俺は、ひとり図書館に向かった。
 本を読むのは、幼い頃から好きだった。きっかけは多くの読書家の例に洩れず、就寝前の読み聞かせだった。母親によって紡がれる世界に毎晩心奪われては、時にワクワク、時にハラハラと、まるで物語の主人公になったような気分を味わった。やがて文字が読めるようになると眠りに就く前のひと時では飽き足らず、家中の本を読み漁った。実家には2つ年上の姉がいたので、子供が夢中になる本には不自由しなかった。三つ子の魂何とやらとでも言うのだろうか。繰り返しになるが、成人式を年明けに控えた今でも、読書は俺の日常の大部分を占めている。
 うちの大学の図書館は充実している。大学の図書館と言うと、お堅い研究書や歴史書の類ばかりで退屈と思うかもしれないが、それはイメージが先行した末の誤解にすぎない。きちんと整列した書架の森には、小説に随筆、絵本や童話、果ては漫画まで。ありとあらゆるジャンルの書籍が揃っているのだ。言うならば、リスクもコストも払わないで堪能できる宝の山、と言ったところか。
 入口の正面、40mばかり先に貸出カウンターがある。カウンターの背後は壁で区切られており、その奥は書庫となっている。そこで保存されている古い書物や貴重な文献は原則貸出禁止とされており、足を踏み入れることさえ係員の許可を得なければならない。
カウンターまでの道をゆっくりと歩きながら、さり気なく、まあ、これも装われたさり気なさなのだが、左右を見回す。すると、肩の高さ程の書棚の向こうに、目当ての人が見えた。そっと、心の中で胸を撫で下ろす。嬉しいと感じる前にホッとしているのは、この一週間ここに来れば必ず見掛けることができていたからだ。
窓際に設置された勉強机で本を読む、綾瀬さん。春の名残の柔らかな日差しを浴びるその席が、綾瀬さんの定位置に、そして特等席となっていた。
ミカには否定も肯定もしなかったが、図書館に行けば綾瀬さんがいると、心のどこかで期待している自覚はあった。自ずと攻撃的な物言いになるのも、彼の茶化しが冗談になっていないからだ。
今までは、見掛けるだけで満足していた。しかし今日は、穏やかに、けれどどこか憂いを帯びているようにも見える俯き加減の横顔から、目を離すことができなかった。
―――彼女は俺と違って短期の留学生だ。夏休み前にはアメリカに帰っちまうぞ
―――夏休みへのカウントダウンはもう始まってると思え
 あの時は余計なお世話以外の何物でもなかったのに、いざこうして件の人を前にしてみると強い焦燥に駆られるから不思議だ。無意識の内に唾を呑むと、大きく喉が鳴った。
 何かしたところで、彼女はいなくなってしまう。だけどどうせなら、俺との思い出と一緒にアメリカに帰ってほしい。「ああ、あんな人もいたな」という程度でかまわない。記憶の片隅に存在できるのであれば、俺はそれで十分だ。
 ならば、やるべきことは決まっている。
 俺はひとつ頷くと、両手に握っていた汗をジーンズに擦り付けるようにして拭いた。それから綾瀬さんに向かって歩を進めた。足取りはしっかりとしていた、と思う。
机の側に着き、しばらく立っていても、綾瀬さんは俺に気付かなかった。このくらいで挫けていては駄目だ。覚悟を決めて声を掛ける。
「やあ」
少し大きな声になってしまった。力み過ぎてボリュームの調節ができなかったのだ。係員の咳払いが聞こえた気がした。図書館ではいささか迷惑な俺の声に、綾瀬さんはようやく顔を上げた。綾瀬さんは束の間驚いた顔をしたが、読んでいたハードカバーの本を閉じると、2時間前と同じ微笑みを浮かべた。
「あら、平塚さん。こんにちは」
「こ、こんにちは」
我ながら情けなくなる程のぎこちなさだ。
「平塚さんも読書ですか?」
「う、うん」
この笑顔と相対すると、どうしても気弱になってしまう。大学生にもなってこの純情さとは……。自己嫌悪に陥りそうだが、その前に目的を達しなければならない。ただでさえ綾瀬さんの大事な読書時間を邪魔してしまっているのだから。
「あ、あのさ」どもりながら、俺は言葉を探した。この期に及んで尚、綾瀬さんの顔を直視できない。「俺、剣道部に入ってるんだけど……」
「まあ、剣道?」
綾瀬さんは俺の話を遮って声を上げた。やはりと言うか、日本文化への関心は強いらしい。
 綾瀬さんに言った通り、俺は剣道部に所属している。剣道は、読書以上に大きな影響を俺の人生に及ぼしている。そもそも東北にある実家が道場で、祖父が師範、父が師範代とくれば、その子供は否応なく剣の道に進むことになる。物心ついた時には既に竹刀を握っていた、と言っても過言ではない。中学・高校でも剣道部だったため、文字通り稽古漬けの日々を送っていた。おかげで全国レベルの大会で上位の常連となり、偏差値では到底合格に及ばないこの大学にも、スポーツ推薦で入学できたのだが。
「では平塚さんはサムライですね?」
綾瀬さんは外国人にありがちな勘違いで目を輝かせる。
「い、いや、侍ではないんだけど。……まあ、武士道くらいは心得てるかな」
「武士道。ジョウチョウ・ヤマモトの『葉隠』ですね。『武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり』」
「よ、よく知ってるね」
綾瀬さんは「お命は大切になさって下さいね」と真顔で俺の手を取る。ん?手を……握ってる?
「うわあ!」
思わず綾瀬さんの手を振り解いてしまった。係員がまた咳払いをした。カウンターの中から、鋭い視線が向けられているのを感じる。
「どうか、されましたか?お顔が赤いようですが」
綾瀬さんは心配そうに俺の顔を覗き込む。
「い、いや、何でもない。……それより」狼狽しながらも、俺はなんとか話を元に戻す。「今度大会があるんだ。俺、大将やるんだけど、よかったら、見に来てくれないかな?」
「大将?」
聞き慣れない単語なのか、綾瀬さんは小首を傾げる。
「そう、大将。ええと、英語では何て言うのかな?……リーダー?キャプテン?」
「Oh, captain!?」
綾瀬さんは両手を胸の前で合わせ、目を丸くした。当たり前だが、発音がいい。
「そう、キャプテン、キャプテン」
一方俺のカタカナ英語の、なんとも間抜けなこと。
「すごいじゃありませんか。是非見に行かせていただきます」
「ほ、ほんとに?」
あまりにとんとん拍子に事が運びポカンとしている俺に、綾瀬さんは屈託のない笑みを向けた。
「ええ。もちろん」
「よ、よっしゃあ!」
「いい加減にしなさい!」
ガッツポーズと共に上げた歓喜の叫びに、係員の怒声が追随した。
誰が為に君は笑う・・前編E

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