綾瀬青葉とミカ・ヤンソン―――吉平の思い人と友人が、対峙している。吉平は声を掛けようとして、しかし挙げかけた右手を下した。2人を取り巻く空間が、尋常ならざる雰囲気を孕んでいたからだ。吉平は急いで講義棟の陰に身を隠すと、密かに状況を盗み見た。
2人は向かい合っていながら、見詰め合ってはいない。それは睨み合いとも違う、無駄な思惑を全て削ぎ落した、どこまでも純粋な関心のぶつかり合いだった。
2人は共に微動だにしない。両者の間はおよそ5m。距離を詰めることはおろか、一歩たりとも足を踏み出すことを許さない様相を呈している。
「なんだ、あんただったのか」
先に口を開いたのはミカだった。
「あいつもケイヤクシャだったから、間違ってヤっちまった。そりゃ勘違いもするさ。だってそうだろ?こんな狭い範囲にケイヤクシャが4人もいるなんて、一体誰が考えられるって言うんだ?」
ミカは饒舌に語ると、口元を歪め、小柄な青葉を見下ろすようにして笑った。
 吉平には、ミカの言ったことが理解できなかった。
 あいつって、誰だ?ヤるって、何を?ケイヤクシャって、何のことだ?
 ミカから視線を離し、次に吉平は青葉の様子を窺う。そして、ゾッとした。
 青葉の顔からは、およそ感情というものが欠落していた。数時間前無邪気に輝いていた瞳は、今は生気を失ったかのように力なく、それでいて正面に確かな視線を送っている。白い肌は暗がりに際立ち、もう何年も目にしていない月を連想させた。
内臓を鷲掴みにされたような錯覚。呼吸がうまくできない。まるで全身を氷漬けにされたようだ。脳が冴えわたるのに反して、全身の感覚は麻痺している。
そんな吉平を察知せずに、ミカは何の反応も見せない青葉を鼻で笑う。
「まあいいや。俺の仕事はあの人の命を狙ってる奴を殺すこと。それまでに何人死のうが殺そうが、そんなことはどうだっていい。
ただ、あんたは特別だよ、アオバ・アヤセ。いや、それも本当の名前じゃないんだろうな。人を殺すために潜り込む奴が、本名で行動するわけがない。……まあいい。名前なんてただの記号だ。対象を識別できればそれでいい。
俺はあんたを殺す。あんたを殺して金を受け取り、地位を手に入れる。この国ともおさらばだ。俺はこの国が大嫌いでね。恥の文化か謙譲の美徳か知らないが、いつもいつもうじうじうじうじ。見ていてイライラするんだよ。……まあ、どいつもこいつもってわけじゃないんだろうが、身近にいたのがそういう奴だったのでね。
おっと、だいぶ話が逸れちまったな。要するに、だ。俺があんたを殺す。それで万事うまくいく。とてもシンプル。だから……」
ミカの顔から、貼り付けていた薄ら笑いが消えた。瞬時に眉間と鼻の頭に皺が刻まれる。
「死ね!」
絶叫と同時に、ミカの瞳孔が赤く灯り、全身を青白い微光が包んだ。すると、ミカの足元に落ちていた落ち葉が、ふっと浮き上がった。それはゆらゆらと、さながら逆再生のようにミカの周りを漂いながら浮上して行く。吉平が目を凝らすと、回転しているのは葉だけではないことがわかった。塵や埃もミカを中心とする輪を描きながら昇って行く。ミカの周囲の空気が渦を巻きながら上昇しているのだ。
「どうだ、俺の能力?けっこうイカしてるだろ?」
不可視の螺旋は、徐々に大きさを増していく。
殺意に満ちた表情を解くと、ミカは再び不敵に笑う。
「なかなか派手だしな。欠点はまだまだ規模が小さいってことと、内部の酸素濃度が低下するから長時間は維持できないってことだな。でも、使い勝手はいいんだぜ」
その時、ミカから3m程離れた所にあった小石が、何者かに蹴られたように鋭く跳ねた。弾丸のように跳ぶそれは、青葉の頬をかすめて闇に消えた。すっと、皮膚が裂け、真赤な鮮血が滲む。それでも青葉は動かない。
「なんだよ」ミカは吐き捨てるように言う。「この国にルーツを持つと、黙ってることしかできねえのか?あんたもケイヤクシャなら、合理的に逃げ出すか、命乞いでもしてみろよ。……まあ、どうしようと殺すけどな。へへ、ヘ……!?」
ミカの表情が瞬時に変わった。浮かべていた嘲笑は跡形も無く消え去り、両の眼がカッと見開かれた顔面には、焦慮と困惑が混在している。ミカはよろよろと後退るが、すぐに腰を落とした。彼の周りを渦巻いていた気流は、今はもうすっかり凪いでいた。
「――――――」
力なく開けられた口から洩れるのは、声にならない喉の震え。
揺れる双眸に映るのは、自らを見下ろすひとりの少女。
 綾瀬青葉は、燃えるような燐光を身にまとい、緋色の瞳をミカに向けている。ミカが風を起こした時と同じだが、しかし吉平にとっては大きく異なっていた。ミカは明白な殺意をぶつけたのに対し、青葉は何も主張しなかった。だからこそ、吉平にはこれから起きる惨劇が予期できた。予期できて尚、人知を超えた展開から目を離すことができなかった。
 「ああ、ああ、ああ……」
ミカは頭を抱えると、アスファルトの上で体を丸めた。あたかも草藪に身を隠す敗残兵のようだ。迫り来る終末に怯えている。
「ああ、ああ、ああ……!」
うめき声は次第に大きくなる。ミカは、激しく転げ回った。例えるのなら、狂ったメトロノーム。まるで見えない炎に包まれているかのように、アスファルトに全身を叩きつけ、のた打ち回る。
「ああ、ああ、ああああああああああああああああああああああああ――――――!」
うなりは遂に咆哮となり、そして静寂を呼んだ。腹ばいに伏したミカは、そのまま動かなくなった。凄惨な形相はかなり濃い赤みを帯びている。顔中の血管は浮かび上がり、無慈悲に這い回る環形動物を連想させる。
 そんなクラスメイトを、青葉は尚も感情を有さない赤い瞳のままで見下ろしていた。
 ふと、吉平の脳裏に疑問が浮かび上がる。
無酸素運動の後は脳内に発生した熱を逃がすために毛細血管が拡張し、その結果顔面は赤くなるが、昏睡状態に陥る程酸素濃度が低下した場合は、逆に青白くなるはずだが……
しかしその釈然としない心持は直ちに無に帰され、吉平の意識は再び起きた異変に引き付けられた。
意識を手放しているはずのミカの体が、動いた。それは痙攣のような瞬間的な運動ではない。ぐぐぐ、と背骨が湾曲する。頭部と腰から先はアスファルトに触れたままなので、さながら尺取り虫が前進するかのような体勢になった。そして、
――――――頭が、爆ぜた。
南瓜が破裂したら、こんな音がするのだろうか?
方々に飛び散る脳漿と血飛沫を眺めながら、吉平はそんな間の抜けたことを思った。
親友が突如として悶え苦しみ出し、動かなくなったと思ったらまた動き、そして、目の前で爆発した。
無意識の内に受け入れることを拒否していた現実は、しかし点在する血溜りから立ち上る熱気がつい今しがた起きた出来事であると物語っていた。
今吉平の目に映るのは、脊椎が剥き出しになった肢体と、傍らに佇む少女。青葉は、まるで縁石に捨て置かれた猫のそれでも見るかのように、足元に転がる同級生の亡骸を見下ろしている。否、やはりそうではない。例え視界に入るのが動物の死骸であっても、大抵の人間であれば、知らず知らず何らかの心情を表すはずだ。
青葉の表情は、何も語っていない。傷心や嫌悪といった、無残な存在を見た時に抱くだろう感情が、何ひとつ読み取れない。
青葉を包んでいた光は、いつの間にか消えていた。右腕を軽く曲げると、握っていた拳を開く。そして、初めてミカから視線を外し、闇にほの白く浮き出す掌に落とした。そこに何があるのか、吉平からは確認することができない。
ふと、青葉が右手から目を離した。それからゆっくりと、吉平が隠れている方向に顔を動かし始める。
――――――逃げなくてはならない。
聞こえるのは、本能の訴え。にもかかわらず、吉平は青葉から視線を逸らすことができなかった。
――――――逃げなくてはならない!
呼び掛ける声は叫びに変わり、吉平の脳内を木霊しては音量を増していく。
それでも、吉平の瞳の中には、今にもこちらを振り向こうとする青葉がい続ける。
本当は、生存本能の呼び掛けなど、友人が変わり果てた姿になる前から聞こえていたのだ。その声に最後まで従わなかった理由は、吉平にもわからない。四肢の神経はとうに役割を放棄していたので、足が竦んでいたとしても自覚はなかっただろう。横たわる屍を静観する秀麗な眉目に、北欧神話の女神を見出だし、心奪われたのかもしれない。
いずれにせよ、このままではあと僅かの後、青葉は吉平を視認することになる。その後どういう展開が待ち受けているのか、吉平には見当もつかない。ただひとつ明らかなのは、安らかな結末を迎えることはできそうにない、ということだ。
その時、吉平の肩を何者かの手が乱暴に掴んだ。直接的な衝撃を受け、凍結していた思考が急速に呼び戻される。
「平塚君」
聞き覚えのある声に振り向く、そこにいたのはカシミアの背広を着こなしたロマンスグレー。
「先せ……」
「静かに」
アルフレッド・ラーゲルレーヴは素早く吉平の口を片手で塞ぐ。それから、吉平の右肩に置いていた手で、今度は右腕を取った。
「逃げましょう」
教師は囁くように言うと、こっちです、と壁伝いに走り出す。ラーゲルレーヴに引っ張られ、吉平もその場を後にする。
 走りながら、吉平は一度だけ後ろを振り返った。何の影もない漆黒の空隙に目をやると、視野の一隅を小さな輝きが横切った。
 儚く消えゆく流れ星に願いを掛ける気になど、なれるはずもなかった。
誰が為に君は笑う・・前編終

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