Novel
□カフェオレの秘密
1ページ/1ページ
俺には弟がいた。
何故過去形なのかと言うと、別に弟が死んだとかいうわけじゃなく、もう弟と引き離されて何年も経つからだ。
そんなわけで、俺は弟との思い出に乏しいわけだが、一つ、鮮明に覚えていることがある。
十年ほど前の冬。
冷たい雨が街をよりいっそう寒くした。
道場の硬い板張りの床はしんしんと冷たく、裸足の指先の神経を奪い去る。
そんな中で稽古を終えた俺と弟が並んで家へと帰る途中、隣の弟が寒さに耐え切れなくなったのか、寒い、と呟いた。
「兄ちゃん、寒いよ」
「俺に言われても…‥」
「兄ちゃんは寒くない?」
「寒い」
吐く息は白く、指先、頬ともに赤い。上着のポケットに突っ込んだ程度では温まらない。
「お母さん、今日は待っててくれるかなぁ…‥」
弟が呟くその言葉で、胸が苦しくなる。だって、今日はきっと母さんは家で待っていてくれはしない。何故なら俺が一緒だからだ。
母さんは、俺の稽古が弟と一緒の時は家で待ってくれたりはしなかった。
俺が母さんに構われないのは、もう仕方が無い。だけど、せめて小さな弟くらいは待ってくれていたら良いのに。
幼心にも、我が家の家庭事情は複雑で、非一般的なのだと理解していた。
「この前ね、すごく寒かった日にね、うちに帰ったらお母さんが甘いカフェオレ作って待っててくれたの」
「…‥うん」
「今日も寒いから、お母さん作っててくれないかなぁ…‥」
グサグサと、弟の言葉が胸に突き刺さる。
純真で無垢なこの弟は、俺のせいで母さんは家にいないのだとは気付いていない。だからこそ、弟の知らないところで、俺のために母さんが家にいないという事実は、俺には重かった。
「母さんがうちにいなかったら…‥」
「うん」
「俺がお前に作ってやるよ。甘いカフェオレ」
弟は一瞬、きょとんとした顔をするとついで嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ありがとうっ。兄ちゃん!」
早く帰ろう、と走り出す弟の背中をみつめながら、俺は弟のあとを追った。
初めてに煎れたカフェオレは、ミルクと砂糖だけじゃごまかしのきかないほど苦かったけど、弟はそれでも何故か嬉しそうに飲んでくれた。
それから弟は母さんでなく俺に、ちょくちょくカフェオレをねだるようになった。
俺は弟に少しでも美味しいカフェオレを飲ませてやりたいと、お手伝いのおばさんに訊いたりしながら、カフェオレを煎れる技術を習得した。
冬を過ぎてからも弟は俺に、甘いカフェオレをねだった。
季節に合わせて、ホットだったりアイスだったりしたけど、弟は俺の甘いカフェオレを飲み続けた。
季節が一巡りした頃、俺が中学生の時だった。
「――兄ちゃん、俺、引っ越すんだって」
いつものように一緒に稽古に行った帰り道、弟はそう俺に告げた。
「…‥あぁ、知ってた。母さんとお前と学校の近くのマンションに引っ越すんだろ?」
「何で兄ちゃんは一緒じゃないの?」
「…‥俺の学校は今の家のが近いからな」
本当の理由は違う。本当の理由は、懐き過ぎてしまった弟を俺から引き離すためだ。
自分より小さな弟の頭をくしゃりと撫でる。弟は不思議そうに俺を見上げた。
「帰ったら、甘いカフェオレ作ってやるからな」
「――うんっ」
一年前と同じように嬉しそうに駆け出す弟の背中を見つめる。一年分だけ成長したその背中はまだまだ小さい。
その小さな弟の後ろを俺はゆっくりと追いかけた。
弟がいなくなって、カフェオレもあまり作らなくなった。だけど、時折思い出しては弟の好きだった甘いカフェオレを煎れた。
ガチャッと玄関の開く音がした。どうやらこの部屋の主のご帰還のようだ。
俺は出迎えのため、玄関まで歩き出す。
「――ただいまです、コウさん」
「…‥おかえり」
いつも花が咲くように、ふわりと笑う彼女の表情が、少し硬い。疲れているのだろうか?
俺は無言で買物袋を受け取って台所へ行くと、かつて弟に煎れていた甘いカフェオレを作ることにした。
お湯を沸かしながら、居間でくつろぐ彼女の背中を見つめる。いつもと同じようでいて、やっぱりどこか疲れているように見える。仕事のことだろうか?
仕事のことを俺がどうこう出来るわけも無い。だからせめて。
甘いカフェオレを、彼女のためだけに。
カフェオレの秘密
かつて弟に煎れていた甘いカフェオレは、
彼女のお気に召すだろうか?
『xxx.IV』提出作品