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□イル・コミュニケーション
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「いらっしゃいま……あぁ、いらっしゃい、巻島君。待ってたよ」

「……。」


オレは決めていたんだ。
今日で最後にするって。



[イル・コミュニケーション]



それなりに広い店の中の一番奥の壁際の席。
こういう店ではなかなか見ないような「予約席」と綺麗な字で書かれたメモ紙を、サッと外して鏡の前にオレを促す。


「髪あげてもらえる?」


オレがその言葉に自分の髪を持ち上げると、首周りに手触りの良いタオルを巻かれる。


「また焼けた?」

「IH、終わったッショ」

「そっか、お疲れ様」


髪を緩く撫でる名無しさんさんと鏡越しに目が合う。

名無しさんさんはオレが今の髪色にしてもらうときに初めてついた美容師だった。色を指定すれば、彼女は驚きはしたもののにっこり笑って、「いいね、似合いそう」と、オレの髪を染めあげてくれた。

次に来た時、名前を覚えていなかったせいで、違う人が担当になったとき、色味が変わってしまって困惑したことを覚えている。

三度目はなんとか名無しさんさんを予約して、染めてもらえば前回ので色が変わっていたのも含めて、全体をオレの想像していた、希望通りの色に戻してくれた。

「やっぱり、この色が一番似合うね」と、その時も笑っていた名無しさんさん。恐らくこの色は彼女にしか出せない、オレはそう思っていた。


「大分プリンになってきてるし、焼けて色も落ちてるね。全体戻す?」

「ん、できたら」


髪は問題なさそうだね、といって名無しさんさんはスタッフを呼んで指示を出す。
それを見てオレは、今日までずっと考え込んでいた言葉を全部反芻する。


「あ、あの…名無しさんさん…」

「うん?あ、切る?」

「いや、それはいつも通りでいいです、ショ…。そうじゃなくて…」


名無しさんさんが首を傾けながらオレを見ている。
話すのが得意じゃないオレを待っていてくれるこの顔が、優しくオレの紙で遊ぶその手が。
気が付けばオレは……好きだった。


「今日は、その…全部…名無しさんさんにやってもらいたいッショ…」

「全部?」

「シャンプーも、ブローも…」


段々尻すぼみになっていくオレの言葉に、名無しさんさんは少しきょとんとした顔をしてから、直ぐに笑ってかしこまりました、とだけ答えた。




もう何度もこの店で繰り返した鼻につくこの香り。
オレはこれが結構好きだった。


「じゃあ、このまましばらくね」


そういって名無しさんさんは独特な音を鳴らしてゴム手袋を外す。


「何か飲む?この時間だと紅茶は駄目だっけ?」


こういうところもズルい。前に一度だけちらりと話した程度の「カフェインが回りやすい体質」という話を名無しさんさんはちゃんと覚えている。
たとえそれが仕事柄だと分かっていても、オレみたいなのは簡単にぐらつくんだ。


「いや、紅茶でいいッショ…」

「そう?かしこまりました」


少しして、店の裏からカップとソーサーを持ってくる名無しさんさん。その紅茶は別段美味しいわけでもなかったが、ここで、最後に飲む物だと考えるとなんだか特別なものに感じた。
少しだけ目が覚めたように思う。


男にしては長い髪を名無しさんさんは絡ますことなくキレイに洗う。全部流し終わり、ブローも終わった髪を見れば、てっぺんに出てきていた地毛も、褪せていた色も、全てが元通りになっていた。


「うん、キレイ、キレイ」


そう言って毛先を触る名無しさんさんは、取り出したハサミで整えていく。


「どう?」


そう言ってオレの両肩に手を乗せる名無しさんさん。
長さを変えるつもりも色を変えるつもりもなかったオレは、勿論不満はなかった。



金を払い終えて店の外に出ると、もう真っ暗になっていて、時間を取らせてしまったことを改めて実感する。
思い返してみれば、最後の方には他に客がいなかったように思う。


「時間…すみません…」

「え?いいのいいの、気にしないで」


いつもならココで帰るオレを知っている名無しさんさんは不自然に思っているだろう。
それでもオレの両足は、まるで地面に接着剤で張り付けられたように、動かなかったし、動けなかった。

今日で最後なんだ、ここに来るのは。
オレは来月には日本を出る。そうすればここには来られない。名無しさんさんに染めてもらうこともない。

まだ少し夏の暑さを孕んだ生ぬるい風がオレの髪を揺らす。その色はやっぱり何度見てもオレの思い通りの色で、“名無しさんさん”が作ってくれるこの色が好きだった。

オレが黙っていると、先に口を開いたのは名無しさんさんだった。


「今日何かあった?なんかいつもと違うけど?」


オレは返事もできずに尚も黙り込む。本当にこういう時、自分の口下手加減に嫌気がさす。


「優勝してたみたいだけど、大会で何かあった?」


黙り込んでいつの間にか下を向いていたオレは、その言葉に勢いよく顔を上げる。
総北が優勝したことは言ってなかったし、そもそも名無しさんさんは忙しくて前々からロードに関しても知識は乏しかったはずだ。


「え?…なん、で?」


オレがそう呟くと名無しさんさんは「しまった」という表情とともに顔を真っ赤に染めて口を手で覆った。

夢だと思った。
自分でも単純だとは思った。
下手な夢は見ない、自分はリアニストだと散々言ってきたオレだったが、今、この状況を前にして、少しでもいいように思わないやつがいるなら教えて欲しい。


「何で結果知ってるッショ」


オレが一歩踏み出せば名無しさんさんは一歩後ずさる。

いつもの店内なら常にオレに触れているのに今の距離がもどかしい。


「え、あ、いや…それは、その…」


顔を真っ赤にしながら目をそらす名無しさんさん。オレとは違って、言葉に詰まってるところなんて見たことなかった彼女の姿に、オレの頭は都合のいいように解釈する。


「名無しさんさん、オレ…来月からイギリスに行くッショ」


思わず彼女の両手首を捕まえてそういえば、オレの目と名無しさんさんの目がかち合った。
その彼女の反応にオレは疑いもせずに確信を持つが、望みもないのにこんな顔を見せてるのなら、名無しさんさんはそうとう酷い人だ。


「……ズルいなぁ…」


オレの手の中にある彼女の手がふるふると小刻みに震えだす。


「そんなさぁ、こと突然…そんな顔で言われても…どうすればいいか分かんなくなるじゃない…」


するっとオレの手を抜けた手はオレの腕に触れて、眉を下げて微笑む目は僅かに湿り気を帯びていて。オレは名無しさんさんを抱きしめていた。
胸のあたりがじんわりと湿るのを感じる。


「…まだ高校生、大学生でしょ?私なんておばさんだよ…?」

「…気にしてないッショ」

「…しかも突然超遠距離だし…周りの子達と比べて、普通じゃないかもよ?」

「クハッオレはそういうイレギュラーは得意ッショ」


所在なさげにしていた名無しさんさんの手は遠慮気味にオレの背中に回されて、そのままぎゅっと力がこもる。

今日一日高鳴りっぱなしだったオレの心臓は、ほんの数秒のこの今の間に、最高潮に速くなっていた。それは、目の前の嘘みたいな状況と、紛れもない真実だと実感させる腕の中の存在を認識する度に、また全身に血液を送り出し、オレの体を熱くさせて、両腕の力が増していく。


「ま、巻島君…ちょっと、苦しい…」

「あ、わ、悪いッ」


名残惜しくもオレが慌てて腕をほどけば、いつもの落ち着いた雰囲気の名無しさんさんで、髪を整えながらオレを見ていた。
オレはその視線の意味が分からずに、今度はオレの目が泳ぐ。


「ふふ、初めてお店に来た時に比べたら随分背も伸びてるし、顔も変わったね」

「なんショ、それ…」

「かっこよくなったよね」

「なッ!?」

「かっこいいよ、裕介」


何てベタなって自分でも思ったが、普段家族以外に呼ばれないその言葉にオレの体は石のように固くなる。そんな身体とは裏腹に早く鳴りっぱなしの心臓は、落ち着くことなんてなくって、レース中ならできるようなコントロールも全く持って意味がない。


「…ッ、名無しさん……さん」


もうすっかり元通りの顔をしているのが何だかオレは悔しくて、反撃にならなくても慣れないまま彼女の名前を口に出す。
そうすれば、名無しさんさんは少し目を開いた後に、ふわりと柔らかく笑うから、やはり少し彼女にかなわない。


それでもいい。
いまは、それでも。

年に差があろうが、どんだけ遠距離だろうが。自分の人一番口下手なところも含めて、全部イレギュラーにして考えてしまえば…全部名無しさんさんのためなら。なんて思えるから、人間ってのは往々にして安いもんだと思う。





時には苦痛を感じるような人との干渉を、一度も嫌だと思ったことがなかった空間が、距離も時間も飛び越えて、目には見えない電波に託されるようになったある夏の夜の話。









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