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□情人節
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「情人節か…」
絳攸の呟きに、おや、と楸瑛は眉を上げた。目の前の同期兼王の側近同士として、長年側にいた彼の口から出るには珍しい口調だった。
「絳攸、君、随分と酔ってるね」
楸瑛は、笑みを浮かべながら、目の前の絳攸の手から杯をやんわりと取り上げようとしたが、当の絳攸がそれを拒んで、杯の酒を一気に喉に流しこんでしまった。
そして、無言でそれをずいっと楸瑛に突き出して来るので、仕方なく満たしてやる。
うっすらと目元を染めて酔いを深める絳攸に、楸瑛は目を細めた。
そもそも、今日は、二人の仕える主上が、どこからか聞きつけた、慕う相手に甘味などの贈り物をして、想いを伝えるとか言う他国の行事を、貴陽中に事前に触れを出して広めた日であった。
普段なら、こんな行事の草案など、絳攸に一刀両断され、跡形もなく消え失せていたはずだか、敵もさるもの。秀麗からの手作り甘味欲しさに、練りに練った草案を、側近二人に相談もなく朝議にかけ、その経済効果がいかほどのものであるかなどを力説。一部の強烈な支持を受けて、今日の行事は実行されたのであった。
劉輝の執念の賜物は、新年の祝賀が済み、毎年人々の財布の紐が固くなるこの時期に、絶大な効果をもたらしたようで、いつしか人々の間で『情人節』と呼ばれ、朝廷でも街のそこかしこでも、贈り物をし合う人々の姿が見られた。
楸瑛自身も、歩くたびに女官に呼び止められたり、妓楼の馴染みからは、文がひっきりなしに届いた。それは、絳攸も同じようで、普段は近寄り難い、女嫌いで鉄壁の理性の李侍郎に、今日ばかりはとにじり寄る女官、果ては男の文官武官から追いかけ回され、実は脆い彼の理性は、木っ端みじんに砕け散り、吏部侍郎室に立てこもってしまったのだった。
そんな絳攸をまんまと連れ出し、自分の邸に連れ込むことに成功した楸瑛は、いつもの軽口で絳攸を怒らせ、軽いガス抜きを何度もしてやっているうちに、絳攸も落ち着きを取り戻し、無言で杯を重ねるようになっていた。
そして、ポツリ。漏らした言葉が、問題の行事の名だとは、楸瑛も驚かざるを得ない。
しかも、少しだけ、切なげに眉を寄せているとは見過ごすことも出来ない。
「…ねぇ、絳攸?」
楸瑛は、間を計りながら、慎重に絳攸に呼びかける。
絳攸は、チラと楸瑛を目だけで促したので、楸瑛は、なるべくさりげなくその問いを口にしてみた。
「君には、情人節に贈り物をしたい相手はいないの?」
勢い良く酒を吹き出したわかりやすい彼を見て、さて、どうやって追い詰めようかと楸瑛は己の唇を舐めた。
「…な、んで、お前は…」
軽くむせて口元を手巾で拭った絳攸は、生理的に潤んだ紫の瞳で楸瑛を睨みつけた。
「さて、なんでだろうね」
強いて言えば。そう言って楸瑛はスッと絳攸の官服の胸元を指差した。
「今日はやけに君がそこを気にするようだったから」
ハッとして自分の胸を押さえた絳攸の手の下。
衣の合わせ目は、いつもより、僅かに盛り上がっていた。
ひたすら逃げ回った絳攸が、一つも情人節の贈り物を受け取っていないことを楸瑛は知っていた。
「これは、その…」
慌てたように視線をさ迷わせる絳攸は、すっかり不機嫌な無表情も消え去り、彼が本来持っている豊かな感情が露わになって、宛推量で指摘した楸瑛の胸を弾ませる。
もしかしたら、と。
「…いるんだね?」
卓に頬杖をついて、絳攸の表情を覗き込んだ楸瑛の視線に観念したのか、絳攸は拗ねたように呟いた。
「…俺は、渡せない」
「なぜ?」
酔いで顔を上気させた絳攸は、ふい、と顔を背ける。そんな仕草に、楸瑛の胸は高鳴る。
「……俺のなど。欲しがっているとは思えない」
「…それは、君がそう思うだけであって、相手はそうじゃないかもしれないよ?」
楸瑛は、殊更優しく言ってみる。絳攸は、その響きに誘われたように、宝石のような瞳を上げた。
笑みを浮かべた楸瑛が絳攸を促すように頷いた。
「……でも、今更なんだ…もう、ずっと側にいるのに…」
吐息混じりに呟く言葉。
ずっと側に。
楸瑛はその響きに一瞬眩暈がした。
もう、ずっと側にいて、親友と言いながら、想いを寄せていた絳攸が、やっと…。
楸瑛は、動悸を抑えるように、一度目を瞑ると、とろけるような笑みを浮かべて、卓の向かいに座る絳攸に、そっと手を伸ばして、ゆっくりとその頬を撫でた。
「ずっと、側にいるからこそ、言葉に出来ない想いもあるよね」
いつもなら、この距離まで近づけば、罵倒されるのが、今はその気配もなく、間近に見る絳攸の淡い睫毛が不安気に震え、楸瑛を潤んだ瞳で見上げては、彼の言葉を聞いていて。
「だから、目に見える形にして、その想いを伝える日なんじゃないかな?」
だから、その胸にしまった気持ちごと。
楸瑛がそう口にする前に、絳攸のほんのりと色付いた唇が音を紡いだ。
「…俺も、伝えても良いのだろか…?」
震える声。瞳。
「勿論だとも」
私も、君が。楸瑛が甘く絳攸を抱き寄せて囁こうとしたその時。
「……黎深様に…」
腰を浮かし掛けたまま、楸瑛の体が固まる。
「……れ、黎深殿、に…?」
はっきりと顔を強ばらせた楸瑛に気づかぬように、絳攸のほうから楸瑛に詰め寄り、うるうると潤む瞳で楸瑛に訴えた。
「いつも、ご命令で手作りの饅頭や点心を差し上げていても、ちっとも喜んでくださらないし。黎深様が欲しいのは、俺のではなく、秀麗や百合さんのものだとわかっているんだ…。でも、俺は…」
ポロリと零れ落ちた涙の、美しいこと!
「俺なりに、黎深様をお、お慕いしていると、そのことを少しでもお伝えしたくて……!!」
手作りで情人節の甘味を作ったあげく、渡すこともできずに悩むなんて…!! 君、どこの乙女!?
しかも、詰め寄る絳攸は、恐ろしいほどに愛らしかった。
楸瑛は別の意味で眩暈がした。
「……………今からでも遅くないから、お渡しに行くと良いよ…」
楸瑛は、家人を呼ぶと、軒の用意を申しつける。
すぐに用意も整い、家人について行った絳攸が振り返った。
「楸瑛、ありがとう」
ああ、彼の屈託のない笑顔は何年振りだろう。
笑顔で手を降って見送った楸瑛は、心の中で涙を流したのだった。
END
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慣れもしないギャグ落ちですみません。