エア春コミスペース

□李花幻想〜第一夜〜
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気が付けば、ただ暗闇だった。

つい先頃に、満ちた月を愛でたばかり。
欠け行く月の出が日に日に遅くなるとは言え、深更のような闇に、楸瑛は宙に視線を彷徨えた。

ぼう、と。
その先が捉えた白。
一つ、また一つと。
闇の彼方に無数のそれが浮かび上がって来る。

漆黒に灯る幽かな白に魅入られたかのように、楸瑛はその白を目指して歩を進めていた。
不思議と風も匂いもなく、ここが内なのか外なのかもわからぬままに、地に堕ちた星のような数多の白を求め歩く。
武官のそれと言うよりは、本能で、この闇に自分は一人なのだと楸瑛は悟る。
それでも心は自然と凪いでいて、ただ足だけが前に行く。
そうして、果てがないとも思われた道程にも、終わりが訪れた。


「――ああ、なんだ…」

思わず漏れたのは、歎息にも似た呟き。
楸瑛の眼前に聳えるもの。
それは、枝という枝に可憐な白い花を咲かせた樹木。
李の古木であった。

いつからここにあるのだろうか。
果実を採る為に剪定されたそれとは違い、天に向いた人の手が入った形跡のないたくさんの枝たち。
しなやかに伸びた枝々をよく見れば、緑の若葉が花に添えられるかのように萌え出ているのも捉えられたが、やはり圧倒的に白が勝り、その集まり自体が内から仄光るようであった。
サワと、小さな花弁が揺れるのを見て、ここには風があると楸瑛は気づく。
そして、幹と、根と。
それに連なる地面と。
己の踏みしめるのがその大地なのだと認識した時、スッと楸瑛に肩を並べる気配があった。

「――楸瑛」

と。
彼の良く知る声が、楸瑛の名を呼ぶ。
出会った時から変わらない響きを持つそれを、楸瑛が聞き間違えるはずがない。
彼の好む淡い色の衣と、日に焼けない筆胼胝だらけの手と。
いつしか並んだ背丈に見合わぬ少し華奢な肩と。
光を孕むような髪色。
すべて儚いばかりの色合いの中で、一つ、強い光を放つ瞳は楸瑛の気に入りで。
その菫の色を映して、呼び慣れた名を口にしようとして、楸瑛は息を飲んだ。

その人は、笑んでいた。
美しく。柔らかく。

「楸瑛――?」

目を見開く楸瑛を見て、フッと首を僅かに傾けて見上げて来るその無邪気とも思える仕草に、覚えず目の眩んだ楸瑛は、一つ、大きく息を吐き出した。

(これは、夢か)

現実感のない闇と、恐ろしいまでに美しい李の花。
有り得ない、友の表情。
夢とはいつだって矛盾だらけで整合性のないもの。
夢と判ればと、楸瑛は改めて、傍らの人に呼び掛けた。

「こう、ゆう…」

かすれた己の声に苦笑を隠せず、漏れた笑みに後押しされる形で、もう一度、楸瑛はその音を口にした。

「絳攸」

ザワッと、頭上の花々が揺れる。
白い、白い花。

目の前の人はまた笑んだようだった。
肌の内から白く透けるようなその儚さに、楸瑛は思わず細い肩に腕を伸ばした。

その指が、確かに触れたと思った時、楸瑛の視界は闇から白へと塗り替えられた。


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